「信仰がない」と同義
二日前は意思について少し書きました。感情によって意思決定するのか?理性によって意思決定するのか?の二択です。僕は自分のことも含めてクリスチャンは意思を放棄しやすいのではないか?と思うことがあります。それは、なんでも「主に委ねます」、「主に任せます」という言葉を使ってしまい、「あなたはどうなのか?」について何もしなくなる場合があると思っているからです。
簡単な問題から始めます。これは僕に対して書いていることです。「祈る時間がありません。聖書を読む時間がありません。」という心の声は、僕がそれをする気がないだけです。それをする気がないというのは、つまり、「信仰がない」と同義だと思っています。
自分の行動こそが本当の自分
僕はなんとかして朝の黄金の時間を主に捧げたいと思っていました。しかし、全く早起きできませんでした。それは、惰眠をむさぼってしまっていたからです。夜遅くまで自分のしたいことを優先していたからです。その過程で早起きできないのは「自分にそれをする気がないから」とはっきりわかりました。
つまり、口だけだったのです。口では朝の黄金の時間を主に捧げたいと気前のいいことを言っていますが、心では全くそうは思っていなかったのです。僕はこのことに気づいた時、大変ショックを受けました。なぜなら、これまで僕は自分の思っていることが本当の自分だと思っていたからです。しかし、実際は自分の行動こそが本当の自分だったのです。
本当の「委ねる」
僕が言いたいことは信仰において意思は非常に重要です。なぜなら、言葉において「主に委ねます」ということは必ずしも委ねていることにはならないからです。むしろ、自分の意思によって「委ねる」選択や行動をすることこそが本当の「委ねる」です。
しかし、僕は思うことがあります。それは「僕は意志薄弱だから」、「安きに流れやすいから」という本音です。自分の意思ほど頼りないものはないと思うこともあるかもしれません。そしてそれは確かに事実かもしれません。
絶対に譲ることのできない選択
しかし、素晴らしいことがあります。元来、人間は感情か理性によって意思決定しなければならなかったのですが、救われた今は主イエス様が天の父に祈って僕たちに与えられる聖霊が助けてくれるからです。こうしたいと願っている意思に主は介入して助けてくださるのです。
だから、僕は宣言します。僕の意思はあらゆる状況、環境下で弱いです。しかし、主に助けてほしい、委ねるという意思だけは譲りません。なぜなら、主により頼む選択をする時に主は必ず助けてくださるからです。