缶詰に入ったパン
先日、防災用に備蓄していた缶詰に入ったパンを食べました。賞味期限が来年に迫っていたこともありますが、一度、どのような味か知っておいたほうがいいと考え子供と一緒に食べました。実際、子どもと一緒に備蓄の食料を一度食べることは大切のようです。それは、万が一、子どもの口に合わなかったら非常時であっても子どもが食べないという選択をする可能性があるからだそうです。
そういうわけで、試食をしました。子どもは缶詰からパンが出てくることに強烈な好奇心が湧いたようで、その流れで大喜びでパンを食べていました。一方、食べた大人は何か独特の味に違和感を感じるという結果となりました。
カップラーメンばかりはきつい
嫁さんは、「非常時に食べ物があるのは感謝なことだけど、これを毎日3食食べるのはきついかも」という感想を言っていました。そのため、5年など長期保存のものではなくて、ローリングストックでやったほうがいいかもしれないという意見もでました。
そんな話をしていた時にこのようなニュースを思い出しました。それはある被災者の意見でした。その方は「助けてもらってるから非常に言いにくけれども、カップラーメンばかりはきつい。」というようなものでした。たとえば、野菜やお味噌汁なども食べたいというのが本音のようです。
ないよりあるほうがましだが
僕は今回本当にその通りだと思いました。毎日、缶詰のパンやカップラーメンではしんどくなるは間違いないです。しかし、この非常事態においては「ないよりあるほうがまし」というのも一理あります。どちらに立つかで意見は変わるのですが、一般的にこのようになると思います。
- ない状態であれば、あるだけでもうれしい
- ある状態であれば、もっといいものがほしい
これは欲望とか贅沢とかいう話ではなくて、人間の自然な反応だと思います。
肉も野菜も食べたい
聖書に出てくるイスラエルの民は確かに「ある状態であれば、もっといいものがほしい」となりました。マナという完全栄養食が与えられていましたが、彼らは、肉も食べたいと神様に愚痴を言いました。その結果、憐れみ深い神は彼らに肉を与えてくださったのです。
ここでの問題は決してマナだけ食べて生きろというわけではないと思います。なぜなら、「ある状態であれば、もっといいものがほしい」と思うのは人間の自然な反応だからです。イスラエルの民がすべきことは、神様に対して愚痴を言うことではなく、「主がエジプトから救ってくだっさったこと、また日々、与えてくださるマナに感謝します。主に不可能はありません。願わくばお肉も頂けると幸いです。」というような言葉ではなかったのかと思います。
自問
じゃあ、僕はどうでしょう。「主が与えてくださった救い、またあなたが共にいる一日一日に感謝します。」と言っているか?そのように自問しました。