1650_クリスチャンがほとんど変わらない理由

罪の力には勝てない

救われてから自分には「主にあって変えられるところと変えられないところがある」と勝手に思うようになりました。確かに二ーバーの祈りにもあるように、そういうものはあると思います。その人がもっている資質、個性、病気などはこの地上で制約をもって生きないといけないことがあるからです。

しかし、僕は自身の悪癖であったり主には喜ばれないと思っているものでも、罪の力には勝てないから無理だと思うようになってたのです。

「そうしなくてもいい」と思っているだけ

しかし、それは当然のことながら不信仰です。主の力を低く評価していることになります。しかし、主とほとんど39年間共に歩む中で確かに「主は僕のすべてを変えることができるお方だ」と思うようになりました。それは、「なぜ自分が変えられないのか?」という問いに対する答えが明確になったからです。

答えとは、「僕がそれを喜々として選んでいるから」というものでした。主には力がある。主には不可能はない。しかし、その主に頼るか?自分の悪癖によっていくか?それは僕が選ぶことです。つまり、主にはできるが僕が「そうしなくてもいい」と思っているだけだったのです。

主と共に歩むならば

では、なぜ僕は主には絶対できる力に頼らずに自分の好きなように生きようとするのでしょうか?クリスチャンとしての危機感がない、自身が聖められることに関して興味がない、福音宣教に対して関心がない、など様々あるでしょう。

しかし、その根本原因は、やはり僕が主と歩んでいないからです。もし、日々主と共に歩むならば主の聖さに与ります。そうすれば、自分も主のように聖められたいと思うはずです。もし、主と共に歩むならば主と同じ思いになって救霊の情熱が湧くはずです。

自分の想像を超えたレベル

ですので、自分が変えられないという問題に対する具体的な対応方法は明白です。一人で主の前に出て祈るということです。主との深い交わり、聖霊の満たしの中に入らなければ自分は決して変えられることはないと思います。変えられていると思っていても、それは自分が思っている小さな範囲だけでの変化です。

しかし、主には不可能はなく、自分の想像を超えたレベルで僕を変えることができると信じています

コリント人への第二の手紙 3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

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