放蕩息子の兄と弟の二人の立場を経験
クリスチャンの信仰生活とは、このような過程を経る場合があるのではないかと思っています。それは、救われて間もない頃は救われた圧倒的な感動とイエス様への情熱や愛を動機として神様の御言に従順して守って生きていきたいと思います。しかし、いつしか聖霊における喜びが薄れ「従順しないといけない」、「守らないといけない」という律法主義に陥ってしまうというプロセスです。
そうして、いわば、放蕩息子の兄と弟の二人の立場を経験しながら、「ただ恵みによって生きる」ことを教えてもらいながら進んでいくものだと思っています。
イエス様への愛を動機としない場合
そして、この「守らないといけない」という聖霊におけるイエス様への愛を動機としない場合、このような経験をするのではないでしょうか?それは、「別に神様の御言の通りに生きなくても大丈夫だった」、「神様の言なしでもやっていけている」という思いです。なぜ、こんなことを書くかというと、僕自身がそう思っていたことがあるからです。
主の御言に従わないからと言って、すぐに天から火が降り注ぎ、焼き殺されるわけではありません。また、主の御言に従順しないからと言って、すぐに信仰生活が破綻してしまうわけでもありません。それは、主の愛のゆえです。主の忍耐のゆえです。
主はこの世界を裁かれる
主の愛は罰則を与えることにより、行動を変えるということを望まれていません。むしろ、聖霊における主への愛を動機として行動を変えることを望んでおられます。しかし、人間は僕もそうでしたが、「別に神様の御言の通りに生きなくても大丈夫だった」、「神様の言なしでもやっていけている」という神の愛と忍耐を逆手にとって、自分のやりたいままに生きてしまう愚かな者だと思うのです。
それは、この世界を見てもわかることです。この世界は戦争が絶えず、争い、不正、そして不義が裁かれることなく野放しにされているように思います。これも、、主の愛のゆえです。主の忍耐のゆえです。今はそう見えるかもしれませんが、主はこの世界を裁かれる日がくると聖書にあります。
律法主義になり主の愛や忍耐を逆手にとる
僕はかつての自分が主の愛や忍耐を逆手にとって自分のやりたいように生きていたと言いましたが、それは今も同じ状態に陥る危険があるということです。もし、聖霊における魂が救われた喜びや主への愛がなくなってしまえば、遅かれ早かれ、律法主義になり主の愛や忍耐を逆手にとるようになります。
なぜなら、それが肉の働きだからです。今日は自身に対して自戒を込めて書きました。