一匹狼的なところ
ここ数か月僕は、きちんと時間をとって一人で主の前に出ることができていません。それは今が苦痛の時だからです。苦痛の時だからこそ主の前に出ないといけないのですが、出れなくなってしまっています。しかし、それだと信仰がだめになってしまいます。そして、今は夫婦そろって主の前に出ることになっています。
僕は基本的に一匹狼的なところがあるので、自分一人でというところにこだわりのある人間でした。それは主に対する態度も同じです。人には「荒野」が必要という聖書の原理原則から考えればそれは言い側面のように思えます。実際にこれまでの人生ではそれが役に立ってきました。
俺一人で大丈夫とずっと思っていた
しかし、今は違います。結婚をしました。それから、自分のことだけではなくて、自分のこと以外のこと、特に自分の影響の範囲外のことで起こることが増えました。それでも僕は結婚してからずっと自分一人で主の前に出るということにこだわってきました。なぜなら、それぞれがまず主につながることこそが重要と考えていたからです。
しかし、ここ数か月の一連の出来事に関して、僕は一人で前に進めなくなってしまったのです。そして、ある聖日に主が語られたことはさ「夫婦で私の前にでなさい」ということでした。その晩、僕は勇気を出して、僕も聖書通読に参加させてと嫁さんに言いました。俺一人で大丈夫とずっと思っていた僕にとって、それはへりくだることを意味していました。それから毎晩、必ず夫婦で主の前に出ています。
僕の肉は主を愛してなんかいない
正直に書けば、僕は毎晩、喜びをもって期待して主に飢え乾いて主の前に出ているわけではありません。「今日は疲れているから聖書音読するの面倒だな~」とか「もう早く寝たいな」と思わない日がないわけではありません。しかし、それは僕の肉がそう思っているだけです。実際、聖書を共に読み主を礼拝すると魂は恵まれるのです。
その時に僕は思いました。僕はこれまで比較的自分は主に飢え乾いていると思っていました。しかし、実は全くそうじゃなかったのです。僕の肉は依然として、自分が大好きだし、自分の好きなことをする時間が好きだし、僕の肉は主を愛してなんかいないのです。
共に主の前にでる
しかし、僕の霊は違います。僕の霊は主に飢え乾いており、主を必要としており、聖霊の満たしを必要としています。主の愛、希望、喜び、平安、楽しみ、勇気、力、慰め、励ましを必要としています。それを受け取るためには戦わなければなりません。それは肉の欲を無視するということです。
僕は未だにそんなことを学んでいるのですが、共に主の前にでる嫁さんがいることに心から感謝しています。