都合のいいもの
今日も人が変わることに関して続けます。僕はずっと変わりたいと思っていました。そして主にあって変わりたいとも思っていました。しかし、自身の内面を見ると、実は都合のいい願望であることもわかってきました。僕が変わりたいと願っているのは、あくまでも僕が思っている範囲内だけであり、また利己的な側面もあったということです。
僕が思っている範囲というのは、ようは変わらなくてもいい部分は残しておきたいという都合のいいものです。それは自分の古い性質であり、悪癖であり、罪かもしれません。それは横においておいて「これこれは変えてください」というような願望を持っていたのです。
利己的な目的
別にこれこれを変えてくださいという願望も決して悪いものではありません。たとえば、人に対して優しくできるように寛容さや忍耐力や憐れむ心がほしいなどです。しかし、僕が主の取り扱いを受ける中で明らかになったのは、「結局自分の人生がうまくいくようにそのような性質がほしいだけでしょ」という痛烈なものでした。
主のご性質にあずかったら家庭も仕事もよくなるだろうとは言葉では書かないまでも、心の中でそう思っていたということです。これが僕が本心だったのです。これは最初に書いたように結局は自分の利己的な目的のために変わりたいと思っていただけにすぎないのです。
変わることときよめ
変わることときよめは関係しています。しかし、上記きよめは全く違います。きよめも人が変えられることですが、そこに範囲の制限や利己的な側面は一切ありません。むしろ、まな板の上の鯉のように主に明け渡すところから主にあるきよめ、変えられることが始まります。
どうも、僕は表面的で自身の都合のいいところだけを変えられたいと願っていたようです。確かに御言を握って宣言して祈って生活はしていましたが、大切なものが自分の中にたくさん残っていたのです。
明け渡す
その中で、主が教えてくださったことは「明け渡す」ということです。僕はこれまでも何度も説教でこの言葉を聞いてきましたが、具体的な実感として府に落ちたことはありませんでした。主に明け渡すといっても目に見えないし、そもそも、自分が今主に明け渡しているのか?明け渡していないのか?すらわからなかったからです。
今、少しだけわかることがあります。「明け渡す」ということは肉においては恐怖そのものだということです。なぜなら、自分が持っていたもの、自分の義など一切がなくなってしまうからです。これが明け渡すことだと今は思っています。
しかし、霊においてはそれ以上に幸いなことはありません。なぜなら、僕がずっとこのブログで書いてきた時々刻々と主と共に歩むということがどういうことなのかを日々教えて頂けるからです。