神第一の生活の具体的な実践
僕はこのブログで神第一の生活の具体的な実践として朝の時間を主に捧げることをしたいができていないということを書いてきました。そしてできてない理由は決して霊的な戦いが激しいからとかではなくて、ただたんに「僕にやる気がないだけ」ということも書いてきました。
1339_僕は今でもまだ朝の黄金の時間を主にお捧げすることを習慣化できていない
1001_やはり朝型にならないとクリスチャン生活は厳しいのか
その証拠として、翌日仕事でお客さんと打ち合わせの予定が入っている時は5時起床でも問題なくできています。お客さんのアポをすっぽかしたら社会人としてやばいという気持ちが僕をそうさせているのです。じゃあ、なぜ主のためには早く起きれないのか?
不都合な事実
その理由が冒頭の一文になります。直視したくない不都合な事実は「そもそも主のために起きる気がない」というものです。僕は主を愛したいし、主と共に生きたいと思っています。そう思っていると思っています。しかし、重要な事実は、僕の行動が僕の気持ちを表しています。
だから、僕は自身の信仰生活に対してずっとこの問題意識をもってきました。そもそも起きる気がない自分をどうするのか?体に鞭を叩いてやらなければならないという一見律法主義に見えるような信仰生活にしないといけないのか?答えがわからないまま数年が過ぎていました。
朝にやるしかないという決意
しかし、その葛藤を主は見逃されることはありませんでした。主は「そうしたいと願っているができない」僕の気持ちを憐れんで下さったように思う出来事がありました。それは試験勉強でどうあがいても、合格水準に達しないので、朝の時間に勉強しないと無理だという状況に追い込まれたことでした。
仕事が終わってから夜遅くまで勉強することもありましたが、体も頭も疲弊している状況では学習効率が上がらないと思いました。そこで、これは朝にやるしかないという決意が生まれたのです。
されど4日
結果、まだ4日しか続いていませんが6時に必ず起床して、まずは聖書を読み祈り、それから勉強をするということを続けられています。動機は試験勉強でした。しかし、それには大きな副産物、むしろ、こっちのほうが大きい収穫が伴ったのです。これは僕にとって主から与えられた小さな成功体験でした。また、たった4日間だけですが、ちゃんと6時に起床して主に朝の一番大切な時間を捧げることができていることに、この上ない喜びを感じたのです。
でもまだ4日だけです。されど4日です。僕の心の声は「どうせすぐ元の生活に戻るさ」と言ってきます。しかし、僕は主を見上げて主と共に1日を歩むことだけは選択し続けようと思います。そうすれば、朝の黄金の時間を主に捧げる生き方ができると信じています。