1442_聖書に戒められる時、肉にはつらいが霊にとっては良い

聖書の言

聖書の言は人に力を与え、平安を与え、休息を与え、道を示し、神様の愛に見たしてくれます。しかし、肉にとってはいいことばかりではありません。なぜなら、聖書の言は人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益なものだからです。たとえば肉において戒められないといけないことがある場合は、文字通り聖書に戒められることがあります。

戒められるのは神様の愛によって矯正される必要があるからです。経験上、矯正される時というのは、肉が活性化されすぎていたり、肉の働きが強くなりすぎる場合が多いと思います。おそらく神様にとったら、本当は戒めたくはないけれど、限界点を超えてこのままいくとよくないと判断された場合に戒められるのではないだろうかと思っています。

ヨナさん

神様によって戒められた、矯正された典型的な人物はヨナさんだと思います。神様の言葉に聞き従わずに自分の肉の思いを優先しました。しかし、愛のある神様はそのまま放っておかれません。あの手、この手でヨナを戒めて最終的に助け出されます。もしヨナが素直に神様の言葉に従っていたなら、嵐に巻き込まれることもなかったでしょうし、魚に飲み込まれることもなかったでしょう。

これをピノキオの寓話的に読んでしまうとそれほど大変に思わないですが、現実に起きたこととして読むならばそれがヨナにとっていかに大きな苦しみであったかは想像に難くありません。しかし、神様は無駄に人を苦しめることはなさりません。すべて御心、御手の中にあり、その背後には想像もできないほどの大きな愛があるのです。なぜなら、ヨナが戒められたのは、神様の裁きと救いを伝えるためだったからです。

一番いいのは戒められる必要がないことだが

このように、クリスチャンも時に自分の思いや肉を優先させる時に戒められることがあると思います。しかし、それは神様の愛ゆえです。そして一番いいのは戒められる必要がないように、神様の言葉に素直に聞き従うことだと思います。

僕はここ数日聞き従うことをしなかったので、大変イタイ目にあいました。しかし、その過程において「これは僕が完全に悪かった」と悔い改めることができました。何よりも戒められて、矯正されることにより、正しい位置に帰ることができたのです。

戒められる過程において、肉はつらいですが、霊は生かされます。聖書の言は人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益なものです。

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