1206_「イエス様、愛しています。」と言える人

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霊的に生まれ変わり霊的にも育った場所

先日久しぶりに仕事のついでに実家に帰ることがありました。もちろん、子供と嫁さんを連れて帰ると両親は喜んでくれるのですが、僕一人で帰っても親子水入らずで話することができるので、それもそれでいいものだなと思っています。

実家は自分自身が心身ともに育った場所でもあるのですが、霊的に生まれ変わり霊的にも育った場所でもあります。先日も実家のあらゆるところに様々な記憶が紐づいていてふとした時のその記憶がよみがえってきて感謝が溢れることが多くありました。

ただただ何よりもイエス様が大好き

特に宅浪で1年間家で受験勉強する生活になった時がもっとも家にいる時間が長かったと思います。イエス様と目標に向かって家で規則正しく勉強して教会に行って礼拝する生活が、僕にとってはこの人生で一番恵まれていたんじゃないかと思うほどです。

恵まれた生活を送れていた理由は決して社会のどこにも所属していないという不安感や不安定な状態が僕を強制的にイエス様に全幅の信頼を置かせていたということではありません。

ただただ何よりもイエス様が大好きで、イエス様をずっと見てずっと一緒にいて礼拝を捧げて生きたいという心の願望から生活を送っていました。

大人のクリスチャンとしてふるまうことを学んでしまった

今その当時のイエス様に対する心の純粋さがあるかどうか?と聞かれたら、間違いなくないと思っています。いつしか僕は大人のクリスチャンとしてふるまうことを学んでしまったのです。教会も社会の一部であり、大人のクリスチャンとして生きることは大切ですが、それと同時にイエス様への純粋な愛の思いが薄くなってしまったのです。

もっと端的に言えば賛美などで歌う以外で、日常的に口頭で「イエス様、愛しています。」というのが恥ずかしくなってしまったのです。

イエス様、愛しています。

しかし、イエス様が求めておられるのは、偽りの心ではなく、純粋な心から出てくる「イエス様、愛しています。」という告白なんだろうと思います。なぜなら、イエス様を愛せる状態というのは、心はすすがれて良心の咎めを去り、体はきよい水で洗われている状態だからです。

つまり、罪が赦された者だけが「イエス様、愛しています。」ということができるのです。聖書にもこのようにあります。

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
ルカ 7:47

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