1614_自身のこどもの告別式の喪主になって

ハッピーバースデー

今日は生まれた赤ちゃんと最後のお別れの日でした。14日に生まれ15日に天に召されましたが、そこから5日間家族と一緒にいることができました。嫁さんも帝王切開なので、通常であれば1週間以上入院してからの退院ですが、出産からわずか2日で退院を許可していただけました。

お葬式までの間、教会に安置させて頂き、家族3人会いに抱っこしたり、ケーキをもっていってハッピーバースデーを歌って赤ちゃんの誕生をお祝いできたことはとても感謝な時でした。

ただ主に感謝

親族だけのお葬式で礼拝をしました。誤解を与える表現かもしませんが、キリスト教のお葬式は不思議と恵まれます。なぜなら、死は終わりではなく希望であることを知識ではなく、神の深い臨在の中で確信できるからです。赤ちゃんは血色よく、眠ったような顔をしていました。

とても和やかな雰囲気でした。もし、信仰がなければどうなっていただろうと思います。永遠のいのちの希望もなく、ただただ断絶された死だけが残ります。ただ主に感謝でした。

何も語ることがない

今回僕は喪主なので最後に挨拶をしなければなりませんでした。前日までかなりバタバタしており、準備ができなかったので当日朝早く起きて準備し始めました。しかし、2時間かけても何もまとまりませんでした。僕は嫁さんに「何も語ることがないから挨拶できないかも」とだけ無責任なことを言っていました。

しかし、その中で、心の中に三つの御言が与えられました。僕はこの三つの御言だけを告白して挨拶としようと思いました。

三つの御言

これがその御言です。

伝道の書 3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

ヨハネによる福音書 1:5
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

詩篇 23:1-6
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

イエス様がなして下さった十字架は決して過去の出来事ではありません。まただたの気休めの知識や教義でもありません。確かに生きて希望を与える現実のものです。

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