1816_不安と苛立ちで揺れる心 | 嵐を静める主に助けを求め続ける

なぜ、そんなにこわがるのか

信仰深いクリスチャンはどのような人でしょうか。僕のイメージではどのようなことが起きても決して動じず、いつも静かな心を持って人に接することができるという感じです。福音書にはイエス様と弟子たちが乗っていた船が嵐に巻き込まれた時、イエス様は枕して寝ていましたが、弟子たちは慌てふためていました。イエス様は彼らに対してこのように言いました。

マルコによる福音書 4:40
イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

確かに信心深いクリスチャンはイエス様が嵐の中にあっても寝ていたように動じないのです。

ぎりぎり

しかし、僕は全く違います。先日も書きましたが、僕はいつも「ぎりぎり」で生きています。日々「心は騒ぐわ、揺れるわ、荒れるわ」で自分が思い描く理想のクリスチャンとして歩むことができていません。しかし、それでも幸いなことがあります。

それは、嵐という刺激に対して「騒ぐわ、揺れるわ、荒れるわ」を表に出さない選択をして、そういった反応ができるという点です。僕はもちろん刺激に対して、文句や愚痴や不満や批判というような反応をすることもできます。しかし、別の選択肢が僕にはあるのです。

助けを求める選択肢

それは「心が騒ぐわ、揺れるわ、荒れるわ」となった瞬間にイエス様に助けを求める選択肢です。

「僕の心はイラついています。僕の心は揺れています。僕の心は批判的です。お許しください。しかし、イエス様は嵐を静められたように僕の心を静めることが出来るお方です。どうか、僕の心を今静めてください。あなたにはそれができます。」

この僕の反応は弟子たちと少しも変わらないかもしれません。もしかしたら、イエス様は「なぜ、そんなにイラつくのか。どうしてそんなに批判的なのか。どうして信仰がないのか。」とおっしゃるかもしれません。しかし、この祈りは自分の限界を嫌というほど知った者の悲痛な叫びでもあるのです。

主に叫ぶ

日曜日に魂が恵まれて意気揚々と月曜日からの生活を始めます。魂が恵まれているので、どんなことにも動じないと僕は思いました。しかし、月曜日に限って、勤労の1日目に限って、いろいろ大変なことが起こることがあります。

僕は1日目にして「心がもうつかれてしまった」と思わない日が少なくありません。しかし、僕はその疲れてしまった心で今日も主に叫びます。

「僕の心はイラついています。僕の心は揺れています。僕の心は批判的です。お許しください。しかし、イエス様は嵐を静められたように僕の心を静めることが出来るお方です。どうか、僕の心を今静めてください。あなたにはそれができます。」

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