生き方は何を見ているかでわかる
クリスチャンの考え方や生き方は何を見ているかによって決まると思います。何を見るかは2つしかありません。それは、見えるものに目を注いでいるか?それとも見えないものに目を注いでいるか?の二択です。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
コリントⅡ4:18
もし、自分のクリスチャン生活に違和感を感じたり、力がないと感じたり、何か物足りない気がすると思うなら、それはきっと目を注いでいる対象が違うだけなのだと思います。
何を見ているか?
それは自分自身の生き方を見ていて思うのです。信仰の導き手であり、その完成者であるお方に目を注いでいる時は、この世が一時的であり、魂の救いこそが最優先事項であると非常な切実感をもって感じることができます。
それが祈りや自身の言葉や行動に表れてきます。それはイエス様を見ているからこそ、考え方や生き方が変わるのです。
しかし、もし、この世的なもの。もちろん、これらのものもないがしろにはできないのですが、仕事ばかりを見たり、老後の生活のことばかりを考えたり、お金のことばかりを見ているならば、永遠の命のことや救霊のことや神様の御心などには気も向かなくなってしまうのです。
目に見えるところは
現在の日本は世界的に見て相対的に非常に平和です。市民が家族と離れて戦場に行く必要もありません。腹が減ったら、夜中でもコンビニでだいたい食べたいものは買えます。日経平均株価もうなぎ昇りで経済的にも恵まれています。
しかし、それら目に見えるところだけに目を注ぐなら、クリスチャンといえども、たとえ救われていたとしても、考え方や生き方がキリストから離れてしまいます。見えるところは確かに繁栄を謳歌して平和で穏やかかもしれません。しかし、霊の目で見る時にそうではないと思ったのです。
自分は何を見ているのか?
時々、教会の先生などが救霊の思いを熱くもっていて、「あの先生は熱いなぁ」と思うことがあります。それは牧師先生がイエス様に目を注ぎ見えるところを見ていないからだと思います。もし、僕があの人は「熱すぎるよね」と冷静に見てしまうのであれば、それはもしかしたら、この世を見る生き方に慣れてしまっているのかもしれないと思いました。