0596_安逸の場所を抜け出すために

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目の前の果実

昨日は言語化された目標と自分の魂に霊的に紐づいた主から与えられたビジョンがないため、日々の生活に緊張感が欠けているという話を書きました。日々の生活に緊張感がないと、流されてしまい、だらけてしまったり怠惰な生活になったりしてしまいます。

「7つの習慣」という本には幸福について、このように書かれていました。「幸福とは、最終的に欲しい果実を手に入れるために、今すぐ欲しい果実を犠牲にすることによって得られる収穫のことだ。」

二つの果実のはざまで

この言葉は多くのことに当てはまるのではないでしょうか。例えばダイエットとは理想的な体型(果実)を手に入れるために、今すぐに欲しい果実(目の前のデザートなど)を犠牲にすることだと思います。きっと受験勉強も希望する学校に入るために、目の前の自分がしたいことを犠牲にしなければいけません。

もし、自分が何者かになりたいなら、必ず選択と集中が必要です。目標に向かって進むためには、本当に欲しい果実を手に入れるために、目の前のすぐに欲しくなる果実を犠牲にしなければならないのです。

きっと、その果実はとても恐ろしいほど魅力的なものでしょう。周りに溢れている娯楽はすぐ手元のスマホの中にあります。AmazonPrimeビデオ、Youtube、ゲーム、スマホゲーム、漫画などにすぐにアクセスできます。あるいは、惰眠をむさぼりたい、楽をしたいとう甘えの気持ちかもしれません。あるいは、必要以上の食欲を満たしたいという欲かもしれません。

安逸の場所を抜け出すために

僕自身は往々にしてこれら目の前に果実に手を伸ばしてしまっています。それは最初にも述べたように言語化された目標がないことと、自分の魂に霊的に紐づくビジョンがないためです。だからこそ、聖書は「幻のない民は滅びる」とまでゆっているのです。

ある人は、緊張感のある生活のことを常在戦場の意識で生きると言っていました。ダビデは「悪の天幕にいるよりは、むしろ、神の門守となることを願う」と言いました。まさにダビデは楽をしたいというよりも、神のために常在戦場の意識でいるほうを願っていたのです。

聖書には「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは世から出たもので、過ぎ去る」と書いています。自分にとって安逸の場所とは肉の欲、目の欲を満たすところです。何度でもここから抜け出すために主を仰ぎ見て流されないで生きれるようになりたいです。

おっさん
■肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは世から出たもので、過ぎ去る

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