日本の恥と言われた行動
某格闘技の大会である人がとった行動が物議を醸し出しているそうです。試合前に外国人選手に花束を贈呈する場面で、花束を渡すふりをして意図的に花束をマットに叩きつけたそうなのです。相手の外国人選手の対応は非常に紳士的でグローブをはめた手で花束を拾い上げセコンドに渡しにっこり笑っていたのです。
おそらく、この場面を見た方のほとんどの方が不快な気持ちになったと思います。SNSなどでは「日本の恥」というワードがトレンドに上がっていて、一般人から著名人までいろんな方が異を唱えているようでした。
なぜそんなことをするのか
どうも、この花束贈呈の権利はオークション形式で販売されたもので、問題となっている人は約400万円払って競り落としたそうなのです。はたからみるとそんな大金を払ってまで相手だけでなく、全世界の人を不快にする行動をしようとすること自体に理解に苦しみます。
ここ数年は迷惑系、炎上系、暴露系ユーチューバーと言われる人がSNSで叩かれることによって露出することを戦略的にやっています。それによりフォロワーが減るどころか、逆に多くのフォローワーを獲得かかえる結果になっているのです。
欲望に訴える
なぜこういった人たちが叩かれて消えてしまわずに、逆に支持者を増やしているかというと、おそらく、「誰かが叩かれているのを見たい」という人間の根本的な闇の欲求に訴えているからだと思います。もっとも、こういったことが駄目なことは小学生の道徳の時間に学習済みのはずです。
しかし、どれだけ道徳や倫理の時間に人間が血を流して獲得した尊い人権や自由などの価値を学習したとしても、人間の欲望の前に形骸化してしまっているのです。アメリカでトランプ元大統領がやったことも同じだと思います。人権とか自由とか結局は綺麗事だよね。自分たちの目の前の生活こそが大切だよね。と訴えたのが刺さったのだと思います。
結局は綺麗事
ユヴァル・ノア・ハラリ氏もこういった価値観を人間が作り上げた虚構と言っていました。人権も自由も建前なのです。人間の根本的な欲求こそが世界を動かしてきたと言っています。
もし、人間の側にこれは「綺麗事」とする建前と本音があるならば、人権も自由も意味のない自己満足の道具に成り下がってしまいます。しかし、もし、人間が心の中から作り変えられるならば、建前がなくなり、本音がそのものが善、真、美なるものを渇望するようになると思います。
お前はどうなのか?
こんなことを書いている僕自身、もし、「自身が餓死しそうになった時、盗みを働かないか?」と自問するときっと盗むと思います。それが僕自身の本質であり、弱さであり、罪深さです。今は環境に守られているだけです。
しかし、たとえ、そういった状況になったとしても、もし神が自分の中に住んでくださるのであれば、気高い生き方ができると信じているだけです。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
ヘブル8:10