0520_結婚式の余興のムービー作製で思ったこと

結婚式の余興

ここ数週間、ずっと友人の結婚式の余興について考えていました。披露宴という華やか場面で主役が新郎新婦にある中、いい年したおっさんが前に出るのも非常に見苦しいので初めからムービーにする予定でした。最初の企画は友人の思い入れのある場所をピックアップしてNHKのドキュメンタリー番組72時間のようなものを撮影する予定でしたが、場所から許可が下りずおじゃんになりました。

その後、Youtubeなどのミュージックビデオを観て参考になるテンプレートがあったので、それで方向性を決めて構成や台本などを作ることにしました。こういう出し物系の企画は新郎新婦の人柄や披露宴の雰囲気やノリを想定して作らないと会場が冷めきってしまったりする可能性があるので割と難しいです。

企画の仕方

僕はどちらかと言えば、自分が面白いと思うことを全部取り入れたいと思うタイプなので、他の人から方向を矯正してもらう必要があります。こういった企画の話し合いの中で改めて感じたのは、言語の力です。もちろん、百聞は一見にしかずで、こんなイメージというのを示すのに映像や画像も参考になりますが、アイディアの出し合いは基本的にすべて言語でやり取りされています。

最初は手にとって見ることのできないアイディアを言語を通して共通認識を得たり、合意形成をしたして、それをもとに最終的に見える完成品に仕上がるという過程が今更ながらすごいことだと思いました。

今回もいろいろな人の意見やアイディアをもらうことで、僕一人だけだとあらぬ方向、自己満足の方向にいこうとしていたところをうまく矯正してもらうことができました。

コミュニケーションの基本

実は神様の御心を知るということも、すごいことだと思います。聖書という言語を通して知ったり、時には映像や画像を通して知るかのごとく、祈りの中で霊的に百聞は一見にしかずというような感じで知るということもできます。

もし、人が言語(聖書)や祈りを通して神様の御心を知ろうとしなかったら、神様との共通認識も得ることができません。つまり、自分が今進んでいる道が正しいかどうかわからなくなってしまいます。聖書はこのように書かれています。

また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
イザヤ30:21

人間同士が言語を通して、コミュニケーショをして知るように、神様と人間も言語を通して、そして、祈りを通して知るものだと改めて思いました。

おっさん
■言語での共通認識の獲得はコミュニケーションのベース

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