昨日に引き続き、海外の神学校の卒業式を観て思ったことを書きます。一つ目は海外の教会から霊的な良いものを取り入れるのがいいのではないかと書きました。二つ目は個人的なことです。それは、僕が自分は神様に愛されていて特別だと思っていたことでした。もちろん、その事実は決して変わりません。
ただ、僕はこのクリスチャンが少ない日本において、愚かなことに「自分はまぁまぁ熱心にやっている」、「この日本において自分には特別な召しがある」と思っていたのです。これは大いなる勘違いであったということを教えられました。
そこそこ主を愛している
日本では牧師は絶滅危惧種とさえ言われていますが、海外においてはそんなことはりません。相対的に牧師、献身者が多いのです。それは、つまりイエス様を愛して自分を捧げる人、文字通り、自分の人生全てを主に捧げる人がそれほど多くいるということです。
僕は恥ずかしいながら「そこそこ主を愛している」と思い込んでいました。しかし、僕のイエス様に対する情熱は相対的に生ぬるいものであったと思わされたのです。もちろん、愛は比べるものではありません。しかし、イエス様はこのようにペテロに聞いたのです。
ヨハネによる福音書 21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
意志の問題
僕は決して負けたくないからという動機から主を愛することが正しいとは思いません。しかし、僕の内側にある救いの喜び、主への感謝、主への愛は、残念ながら自分のすべてを捧げるほどではなかったと思わされたのです。何度も書きますが、むしろ「僕はまぁまぁやっているよね」と思っていたのです。
僕は自分の課題を知っています。それは「意志」の問題です。これは何も自分の意志の力で頑張って信仰生活を送るというものではありません。すべての決断において、主を選択する、主に委ねるという意志の問題なのです。僕はそれをあいまいにしていたのです。
自分が何を選択するか
神学校の神学生は神様からの召しを頂いたことでしょう。しかし、その召しに応えたのは彼らの「意志」による選択なのです。そこに聖霊が働かれていることは間違いありませんが、結局は自分が何を選択するかにかかているということです。
イザヤ書 6:8
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。













