1922_【懺悔】ワーシップソングに対して辛辣な内容を書いて戒められた時のこと | 主の方法

ワーシップに依存

僕は先日このような記事を書きました。

一つ目の記事で書いたのは、ワーシップソングが捧げられる礼拝だけに依存する信仰は出エジプトされないといけないということでした。これは僕が通らされた道です。ワーシップソングが捧げられる礼拝では、主の臨在を感覚で感じることができます。時には霊的な恍惚感を感じることもあるでしょう。しかし、もし、それに依存し続けるならば成長は止まると書きました。

成長するに必要なことは信仰と聖書の御言と一対一の祈りだと思っています。たとえ、主の臨在が感じることができなくても聖書がそういうのなら主は共にいてくださるのです。聖書の言に立ち続ける信仰と祈りによる個人的な関係がなければ、遅かれ早かれ、信仰はいきづまります。

心に平安がない

二つ目の記事で書いたことはワーシップソングをただ聴くだけでは恵まれた気になってしまう危険性があるということでした。しかし、そこに嘘偽りのない真実な心と注ぎ出す心があれば、それは主にとって喜ばれる礼拝になると書きました。

僕はこれらのことを書いてから、少し書きすぎてしまったのではないかと心に平安がありませんでした。そして、主はワーシップソングの中で僕にこのように語り掛けてくださったように思います。それはこのようなものです。これは僕の主観なので本当に主の声かどうかわかりません。

「わたしはこれまでも、そしてこれからも真実な礼拝の中で私自身を現わす。あなたが賛美の中でわたしに出会ったようにあなたも他の人が賛美の中でわたしに出会うことができるように、とりなしの祈りをしなさい」

主の方法

僕は主の前に悔い改めました。礼拝は聖書的な主の方法なのです。それに対して僕があーだこーだいうことが間違っていると教えられました。僕は今おかれている教会で、賛美の中におられる主の深い臨在を求めて祈っていきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)