やばい人もいるしいい人
昨日は能力だけではなく、徳や品性と言われるものまでも先天的にある程度まで決まっているということを書きました。こういったことは、あまり言語化されることはなかったかもしれません。しかし、実社会を見ると確かにやばい人もいるしいい人もいるので、それは当たり前の事実だと思います。
そして、さらに不都合な真実を書きます。そうった徳や品性は努力でどうこうできるものでもないということです。もちろん、ある程度までは自己啓発やショック療法や言語化により自分を制御できるかもしれません。しかし、それも限界があります。先天的にそういった徳や品性を備えている人に到底かなわないことだってあります。
みじめな人間
そして、こんなことを書いている時点ですでに証明されていますが、僕はやばい人に属しています。しかし、だからといって主観を発動して「こういう人間だからキリストが必要なんだ!」と訴えたとてすべての人に響くはずがありません。それは、世の中にはいい人もいっぱいいるからです。昨日はそういったことを書きました。
じゃあ、僕は聖書に書かれているとおり「なんというみじめな人間なのだろう。」で終わるのでしょうか。そうではないことがキリストが証明してくれました。なぜなら、聖書にはこのように書かれているからです。
ペテロの第二の手紙 1:4
また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。
神の性質にあずかる者
つまり、やばい人間ですら、悔い改めによってキリストの血潮の原則を通ることによりキリストの内住によって、神の性質にあずからせて頂けるのです。この驚くべき真理についてはこのブログでも何度も書いてきました。
ようは、「あーこういった寛容さを人に示せたのは僕じゃないわ」とか「このような愛を人に示せたのは僕じゃない」という場面が日常の場面で感じることができるのです。これは自分のやばさを知っているからこそわかる気づきです。
救われた状態で主に従う
その喜びがある一方で、なぜ僕はこんなにもやばいのだろうと思ったことがあります。その時に与えられた御言はこれです。
ヨハネによる福音書 21:22
イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
自分がやばかろうが、周りの人がいい人だろうが関係ありません。僕はただ今、救われた状態で主に従うだけです。













