神様直通の祈り
先日のブログで異言の祈りは神様直通の祈りと書きました。
もちろん、イエス・キリストの名によって祈られる祈りはすべて天のお父様直通です。ここで僕が言いたいのは神様との親密な交わりの中に入れるという意味で直通だということです。
すべてが完了した
イエス様が十字架の上で「すべてが完了した」と叫ばれた時に不思議なことが起きました。それは超自然的なことでした。エルサレムにあった神殿の至聖所の幕が上から下に避けたのです。神殿には聖所と至聖所がありますが、至聖所に入れるのは大祭司のみで年に1回「贖罪の日」のみに限られていました。
これがイエス様が成し遂げてくださったことの本質です。つまり、イエス様の血潮によって天のお父様との関係が回復し、誰でも霊的な意味での至聖所に入って神様と交わることができるようになったのです。
その中で
僕はクリスチャン家庭に生まれ教会の活動に参加し聖書の御言を聴き、両親の信仰生活を間近で見ていましたが、それらは僕を救いには導きませんでした。もちろん、それらは僕の救いに必要なものではありましたが、それは僕を救ってはくれませんでした。
僕が本当に自分の救いを確信し、救いの恵みがこの地上で最も素晴らしいものであると知ったのは、この神様との親密な交わりに入ったからです。その中で自分の罪を知り、イエス様の愛を知りました。その中で導きと確信をもらいました。その中で失敗や失望から立ち上がりました。その中で悔い改めてきました。その中で何度も涙を流し、震えるほどの感動と感謝の中で主を賛美してきました。
イエス様の愛に満ち溢れる
異言の祈りは神様直通の祈りです。この恵みを受けないということはあり得ないと思います。もちろん、異言が様々な場面や状況において人を躓かせていることは否定できません。礼拝には秩序が必要であり、パウロも聖書で公共の場における異言について語っています。
しかし、自分一人で部屋にこもるならば誰も躓かせることはありません。異言の祈りは至聖所での祈りです。大祭司一人が至聖所に入っていったように、神様と一対一で対峙する祈りです。その中で霊が解放され、自由になり、イエス様の愛に満ち溢れるのだと思います。












