1787_クリスチャンは律法主義とキリストの恵みの間で揺れているものなのか?

クリスチャンを悩ませるもの

キリストの恵みと律法主義はいつでもクリスチャンを悩ませるものです。それは間違って恵みを理解すると「神様は愛だし、究極、何でも許してくれるじゃん」と神様の恵みを逆手にとるようになるからです。かといって、行いを重要視しすると本当の恵みからももれてしまいます。

僕は、これまで、これら二つの間に挟まり律法主義になりすぎず、かといって恵みに甘えすぎないようにしつつ、いわば、中庸のバランスを取るように生きないといけないと思ってきました。

幻のない民は滅びる状態

そうして、律法主義には行いや努力や禁欲といった言葉もイメージさせることから、キリストの恵みに与るためにはそういうものに頼ってはいけないと思っていた時期がありました。信仰に対して努力をすることをしなくなったのです。

そうした結果、僕のクリスチャンの歩みがどうなったかというと、誰かを積極的に愛することも、福音宣教にも全く興味を抱かなくなってしまったのです。もはや幻のない民は滅びる状態になってしまったのです。

律法主義と恵みの間にはいない

しかし、考え方が変わったことがありました。それは自分が律法主義と恵みの間にいるという理解から解放されたからでした。僕はもう律法主義の引力に引かれることはないと信仰を持ったのです。

その代わりに僕は別の捉え方をするようになりました。それはキリストの恵みに留まり続けるという捉え方です。

僕はもう律法主義にはならないけれど、恵みからもれる可能性はある。だからこそ恵みを受けるだけではなくそれを自分の中に留め、留まりつづけたいと思うようになりました。

恵みの中に留まること

恵みの中に留まることについて僕はこのように理解しています。それは空っぽのコップを水槽の中に入れるようなものです。空っぽのコップの中にも水は満たされ、コップ自体も水で覆われています。僕がしなければならないのは水槽である恵みの中に飛び込むことだと思っています。

そのように考えるようになってから、この恵みの中に飛び込むためには何でもしたいとおもうようになりました。それに関してはこのブログでも書いてきていますが、それは決して僕を律法主義に引っ張り戻そうとするものではありません。あらゆる方法を使って恵みの中に留まりたいと思う願いからしていることです。

自分のからだを打ちたたいて服従させる

それはキリストを目指して生きることと同義です。僕がパウロの言葉を引用するのは畏れ多いことであり、レベルが全然違うのは承知の上ですが、この御言のとおりに自分も精一杯努力して生きたいと思っています。

コリント人への第一の手紙 9:25-27
しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。

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