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失敗を見ない
最近は通読で出エジプトを読んでいます。今日は3つのことを学びました。一つはモーセが80歳にして荒野において主に召されたのち、エジプトのパロやイスラエル人の前に立つ場面から学びました。
モーセは主に召されたにもかかわらず、全く自信がありませんでした。それは、彼は若かりし頃に大きな失敗をしていたからです。奴隷状態になっているイスラエル人を良かれと思い救おうとしたことが裏目に出てしまったのです。
彼は失敗に囚われていましたが、主は失敗を見ずに彼の可能性のほうに目を留めておられました。これは今生きる僕たちに対しても同じです。
奴隷であることを疑わない
2つ目はモーセの言葉を聞いたイスラエル人の反応です。モーセは奴隷状態にあるイスラエル人を解放し救うことを伝えましたが、イスラエル人は自分たちが奴隷状態であることに疑問を抱きませんでしした。むしろ、モーセのせいで奴隷としてレンガ造りがしにくくなったことにモーセに不満をぶつけているのです。
モーセはそもそも奴隷から解放することが目的であったのに、イスラエル人は奴隷であることを疑わず日常の目先のことで頭がいっぱいだったのです。これは僕も同じです。なぜなら、祈りや聖書によって物事を霊的な目で大局的に見ることなしには、視野が狭くなり無理だと思ってしまう肉の弱さがあるからです。
明日やる
3つ目は、モーセが数々のしるし、不思議を示したにもかかわらず、パロが心をかたくなにしたことです。彼のこのような言葉や表現は僕と似ていると思います。これはモーセがいつイスラエル人を3日ほど離れた荒野で礼拝を捧げさせてくれますか?と聞いた時の回答です。
パロは言った、「明日」。
出エジプト8:10
全くやる気のない「明日」です。明日やろうは馬鹿野郎と言ったりしますが、僕はいいわけでよく「明日祈ろう」とか「明日聖書を読もう」と思ったりしてしまうことがあります。
気が緩む時
次は心に刺さった二つ目のパロの言葉です。
ところがパロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かなかった。
出エジプト8:15
僕は息つく暇ができると霊的な意味で気がゆるんでしまうことがあります。例えば、緊張感のある奉仕がある前は霊的な状態を良好にしようと思いますが、奉仕が祝福の中に終わった時に、息つくひまのできたのを見て気がゆるんでしまうことがあるのです。
モーセの言葉にもパロの言葉にも教えられることがあります。聖書は本当にすごいと思います。