時代ごとに分けられる家の教会の形態
中国の家の教会は、ここ30年で著しく成長し、その規模も政府公認の三自愛国教会を遥かに凌駕しており、現在に至っても、加速度的に成長し続けている。中国の家の教会は、大別して以下の3つの段階を経て成長してきた。
- 地下教会時代
政府の弾圧を避けるために、文字通り地下状態で教会運営が行われていた時代
- 教団式の教会時代
改革開放以降、急激に増加した海外からの援助を背景に、教団形態で教会運営がなされた時代
- 独立している地方教会時代
海外の教会の援助に依存せず、単立の地方の教会として独立、し教会運営している時代
現在では地下状態の教会や、ピラミッド型の中央集権的な組織形態の教会は、既に主流ではなく、より開放的で、上下関係のない平等な組織形態の家の教会が主流になっている。
建国(1949年)以降の発展段階は以下の通りです。
地下教会時代
西欧諸国主導のキリスト教から脱却し、中国人自らが教会を運営することを目指す三自愛国運動が、呉耀宗の提唱により起こり、この運動が全国のクリスチャンに迎え入れられ、1950年に政府公認である三自愛国運動委員会が設立された。
しかし、この運動は教会の政治機能を重視し過ぎたため、その組織運営は、次第に政府主導の傾向が強まっていった。実際は、三自愛国運動委員会設立当初から、この運動の理念に対して懐疑的であったクリスチャンも多くいたため、大躍進政策推進時期(1958年)には、既に農村で三自愛国教会とは別の教会が形成され始めていた。
そして、この頃から、既にキリスト教会の中で、「三個半省」の言い方が生まれ始めていたといわれている。「三個半省」とは、以前、大規模なリバイバルが起き、中国内でも特にクリスチャンが多い地域のことです。
特に、安徽省の西部、河南省の南陽区、山東省の地方地区、浙江省の温州市、この4つの地域は、三自愛国教会の組織外で、多くの伝道師が特に積極的に福音宣教に専念し、地下教会を次々に建て上げていった地域である。
文化大革命期(1966年から1967年)は、地方政府が三自愛組織外の教会に対して激しい弾圧を加え始め、多くの教会が解散に追い込まれ、特に河南省の南陽区と阜陽区の伝道師は、激しさを増す迫害の中にあって行き場所もなく、あちこちへ散らされて行った。
この時期は、家庭で集会をもつことは不可能で、まだ、家の教会という呼び方は生まれておらず、集会場所はすべて秘密で、この頃、教会活動は地下状態で行われていた。
教団式の教会時代
文化大革命終了後、文革期、一時活動を停止していた三自愛国教会も再び開始し始めた。
1979年に鄧小平の訪米が実現し、中米関係が改善されたこと、また、当時の大統領であるカーター氏自身が、バプテスト教会の執事を務めていたこともあり、アメリカから中国のキリスト教会へ、大量の資金や書籍や聖書などが入り込むようになった。
特に1980年代初期は、三自愛国教会組織内で以前からあった矛盾や対立が顕在化、特に信仰の立場の違いや教義に関するもの、権力闘争や政府の過度な干渉などへの嫌悪など、複数のグループに分かれ、深い対立に発展し、その一部は三自愛国教会から離れ、家の教会へ合流することになった。
1980年代は、海外の教会の援助のもと、特に中国人伝道師である“趙天恩”や香港出身の“包徳寧”などが、積極的に海外との教会との関係を重視したため、彼らの献身的な働きが、海外の教会と家の教会をつなぎ合わせることに貢献し、中国の家の教会を教団式の家の教会へと発展させた。
独立している地方教会時代
1992年鄧小平の南巡講和以来、急速に都市化が進み、中国の教会は世俗化の危機に直面した。
1990年代中ごろまでは、教団式教会が主流であったが、急速に進む都市化した社会がもたらす強力な影響力の前に、教会は適応できずに、その頃から、その内部で様々な問題が噴出し始めた。
その問題の主要なものは、以下の3つに分けられる。
一つ目は、教会組織に関するもので、権力一極集中の中央集権組織、またはカリスマ指導者に対する個人崇拝などに起因するもの。
二つ目は、教義に関するの問題で、あらゆる異端や邪教が次々に現れ始めたこと。
三つ目は、政府が教会に対する圧力を強化し始め、教会の政府に対する対抗性が強化され始めたこと。
2003年以降、海外からの資金援助が次第に減少し始め、海外の教団からの影響力や統制も弱まり始めたことから、中国の家の教会は、教団式の教会から脱却し、現在の主流である独立した地方教会型の教会へと変化していくようになった。
この多くの教会が、海外の教会に依存せず、また干渉も受けず、独自の教会形成を進めている。
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