神の愛
キリスト教は神の愛を教えてくれます。その愛は決して人が持っている愛と比べ物になりません。言葉を選ばずに書けば、クリスマスのロマンティックな男女間の愛はそれと比べるとあまりにも低俗すぎます。また親が子に抱いている犠牲の尊い愛もそれには及びません。その愛は唯一の神だけがもっている永遠の愛、限りなき愛、真実の愛です。
僕はこの神様の愛を聖書の御言や礼拝や祈りから知りました。それはこの地上では決して知ることはなかった本当に神っている愛なのです。
人を愛することができる
この愛は誰からから聞いただけのものではなく、また言葉だけではなく、確かに霊的な深い領域において体験できるものです。神は霊であり、人間は神に似せて霊的な存在として造られたものだから、霊の領域において体験できるものだと信じています。
僕はこの愛によって人生が完全に変わったと思っています。しかし、僕はそれ以上に驚いたことがあります。それは、僕もその愛をもって人を愛することができるということでした。
われらと共にいます神
神様は例外として、僕は自分のことを誰よりも知っています。僕の中には人を愛する思いは一切ありません。自分さえよければいいと思っており、自己中心的であり、無慈悲で無感覚で非情な人間であることを認めています。
が、しかし、聖書に書かれているとおり、インマヌエルの神、われらと共にいます神が僕と共にいて下さる時、僕自身も神様と同じ愛で周りの人を愛することができるようになったのです。僕にとっては正直そっちのほうが驚きでした。この自分の古い性質が無力化し、新しい自分が確かに生きていることを実感させたのです。そして何よりこの神様は本物であり、今も生きておられるお方だと確信せざるを得ませんでした。
その愛は救霊の思いへと繋がっていく
古い僕は、人の欠点を見ては揚げ足をとり、口や顔には出さないけれど心では何かを思っているようなものでした。またあの人はあの人、僕は僕と我関与せずの態度で人に対して関心がありませんでした。しかし、神が共にいてくださると言葉も行動も変わります。
それは、心が変わったからです。祈りの中で周りの人を祝福して愛して受け入れてサポートしたいという気持ちが沸き起こります。そして、その愛は救霊の思いへと繋がっていくのです。
祈りの生活ができているかが前提
もちろん、だからといって僕がマザーテレサのように万人を愛し、いつも完全な言動をもって人を愛せているかと言えば全くそうではありません。心に苦々しい思いが来ることだってあります。ただ、祈りの中で神に近づくとき、聖霊に満たされる時、神が共におられる時に神の愛が僕にも生まれ、そこから初めて人を愛せるようになるということです。
それはつまり、時々刻々と神を求める生き方、祈りの生活ができているかが前提になるのだと思います。もし、いつも聖霊に満たされて人をいつも愛せるようになれればこのブログのテーマにしている豊かな生き方が達成されるのだろうと思いました。