1301_あの時の集会、あの時の指導者の姿

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多くの奇跡

イエス様と共に歩む中で多くの体験をしてきました。体験と言っても客観的に見てすごい奇跡やしるし、不思議などではないかもしれません。しかし、僕の主観においてはすごい奇跡やしるしと思えることが数多くありました。その中の最も大きな奇跡とはイエス様の愛を知ったことです。

イエス様の愛が完全に僕を変えてしまったからです。何ものをもってしても、僕は決して変わることがありませんでした。むしろ、どうにかしようとすればするほど、考えれば考えるほど、ドツボにはまりますます自分の状態は悪くなっていくのでした。

個人的な主観的な出来事

しかし、イエス様の十字架が僕の心の中に描かれた時、2000年前の十字架は自分のためであり、心の底から罪が赦されたという体験をしました。そしてイエス様は今も生きていて、もし僕がへりくだり続け、罪を悔い改め続けるならば、いつも喜んで共にいてくださるお方です。

こういった体験はほとんど僕とイエス様だけが知る事情に個人的な主観的な出来事として記憶されています。しかし、信仰生活を送っていくと必ずしもそういった個人的な体験ばかりが記憶に強く残っているというわけでもありません。

あの時の集会や指導者の姿

たとえば、僕はあの時の集会、あの時の説教、あの時の指導者の姿などをよく思い出します。それは自分の個人的な体験と同じように霊的な深い領域において非常に重要な体験として刻みこまれています。

自分が学生であった時に参加した教会の夏のキャンプでの集会では、霊的な領域において完全に自己否定して主だけに頼ることがどれほど幸いで喜びであるかを体験しました。またある特別集会後、指導者の外国人の先生が会堂の端のほうで頭を地につけて跪いて祈っていた姿は忘れられません。

へりくだった神の器

そう考えると、自分の周りにまことにへりくだった神の器がいたからこそ僕の今があるんだと思いました。祈られていただけでなく、本物のクリスチャンが周りにいたことが僕に多くのよい影響を与えてくれたのです。

僕はどうでしょう?全きへりくだりがあるでしょうか?自分がさげすまれたり、低く扱われたりしても自分の肉は吠えないでしょうか?誰かに嚙みつかないにしても、心の中で悪い思いを燃やし続けていないでしょうか?

願うこと

今日も祈る祈りは一つです。

「主よ。私をへりくだらせてください。そして、悔い改める罪を教えてください。」

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