1257_わたしたちは、●●●にあって歩いてはいるが

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御言が開けない限りは

聖書を読んでいて思うことは自分が聖書のことをそれなりに知っているだろうと思っていても実はほとんど理解できていなかったということです。確かに理性によって理解はしているつもりですが、やはり御霊によって御言が開けない限りは御言を悟ることはできないと思います。

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。
詩篇 119:130

これまでも、このブログで御言は頭で読むものではなく、霊で読むべきと何度も書いてきました。

0220_一蘭のラーメンは頭で食べる。聖書は霊で読む。

何にあって歩んでいる?

例えば、先日はある御言で目が開かれたことがありました。みなさんは自分がキリストにあって歩んでいると思われていますか?あるいは肉にあって歩んでいると思われていますか?きっと多くの方が自身がクリスチャンである以上、キリストにあって歩んでいると思われるのではないでしょうか?

しかし、聖書にはこのような記述がありました。

わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。
コリントⅡ10:3

そうです。僕は確かにこの地上では肉体を持っており、肉にあって歩んでいるのです。それは確かに事実なのです。

信仰によって

あくまでもクリスチャンがキリストにあって歩んでいるのは信仰によってなのです。この地上では肉にあって歩んでいるが、信仰によっては霊によって歩んでいるという線引きを明確にすることは非常に重要だと思いました。理由としては「なぜキリストにあって歩んでいるのにこの地上ではなんでこんなんなんだ!」とか思ってしまう可能性があるからです。

例えば毎日の仕事や家事はどうでしょうか?現状の僕の認識では、仕事も家事も肉にあって対応しています。肉にあって対応する以上、この体と頭を使って望まないといけないし、必要なことは学び続けないとなかなかうまくいきません。

しかし、そうは言いつつも、信仰によってキリストにあって歩んでいるし、御言にあるように肉には従って戦っているわけではないのです。

注力すべきことは

クリスチャンは霊の領域においてキリストにあって歩んでいます。キリストにあって生きているということは霊的な領域に注力すべきということだと思います。霊的といえば少しスピリチュアルですが、言い換えれば肉的ではなく物質的ではないものということだと思います。

肉的(人からの評価など)を求めるのではなく、物質的(経済的な豊かさなど)を求めるのではなく、霊的な豊かさや神様からの評価を求めることだと思います。

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