1231_僕の脳はおそらく特定の部分が著しく萎縮、あるいは欠損しているのだと思う

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今やっていることに何の意味があるの?

僕は今でこそ社会不適合者でありつつもまだ何とか仕事をしていますが、以前の僕は仕事どころか、全くこの世界で生きられないような存在でした。それは、生まれて物心がついた頃からすでにこの世界を悲観的にとられて、「今やっていることに何の意味があるの?」と思ってしまい無頼的で無気力、無活力、脱力的に生きてきたからです。

僕が記憶にあるのはすでに5歳の時にはそのように思っていたように思います。もちろん救われた今は、そのような自分はキリストの十字架とともに死んだのでとらわれることはありませんが、今も自身の個性というか、特性において世界を世間一般が見るようにみれない性質が残っています。

オリンピック

例えば、先日も嫁さんとオリンピックを観ていたのですが、嫁さんに「すごく冷めてるね」と言われれました。僕からしたら「そんなに一生懸命涙を流して運動することに何の意味があるの?」と思ってしまったからです。

決してネタで言っているのではなくて本当に人間が設定した4年に1度に開催されるイベントにかける意味が全く理解できないのです。おそらく、脳のどこかの部分が明らかに委縮しているか、そもそもその部分だけ欠損しているのかとも思っています。

ドッジボール

小学校の時もそうでした。ドッジボールは相手が受け取れないような強烈なボールを投げて痛めつけて喜ぶ人間の罪の性質が現れた運動だと理解していました。別に両親がそのように言っていたわけでもなく、誰かの影響を受けたわけでもなく、僕自身が自発的にそう思っていたのです。自分でも本当に嫌な子どもだと思います。

それに興じる興じないは個人の自由なので別に良いのですが、それを体育の授業に取り入れて強制参加させられるのが嫌だったのを覚えています。

この世は僕に対して死んだ

脳のある部分はおそらく萎縮、ないしは欠損していると思っていますが、そのような僕が生きる目的を見出したのはイエス様の十字架のほかにありません。イエス様の十字架こそが僕の人生の真のスタートであり、それがすべてのすべてであり、それなくしては今も生きている意味などないと思っています。

僕はこの世を憎んで生きてきましたが、キリストにあって、すでにこの世は僕に対して死に、僕もこの世に対して死んだのです。

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
ガラテヤ6:14

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