1193_イエス様に集中する祈り

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デボーションが変わった

最近、少し自分のデボーションが変わったように思います。これまではルーティンで聖書を通読して、自分の暗唱聖句ノートの聖句を音読して、その他、信仰書に書かれている祈りを宣言して、目をつぶってする祈りを3分くらいしていました。

御言を読むことや暗唱すること、そして宣言することに時間を割き、重点をおいているには理由があります。僕はバックグラウンドがペンテコステ派なので、自分の信仰が感覚的なものにならないように意識的にそうしてます。

人一倍感覚的な人間

きっと多くのペンテコステ派の方は御言も祈りにも重点をおいていると思うので僕みたいな極端なことをする必要はないかもしれません。しかし、僕は人一倍感覚的な人間であり、実際にそういった弱さを抱えているので、御言に重点をおかないと感覚的なものにもっていかれてしまうのです。

だから、ここ5年間くらいは御言を自分の中に編み込み、刻み込み、打ち込むということに専念してきました。そういったことで、今のデボーションの方式が確立されたのです。

形式主義

しかし、僕は今のデボーションの方法に満足していたわけではありませんでした。確かに御言によって力づけられて矯正されて満たされて恵まれるという体験はしていたのですが、こと、イエス様との個人的な交わりという一点においては、何か形式主義的に陥っているのではないかと思っていました。

そして、3分の祈りに関しても自由な祈りではなくて、身内や教会や日常的な課題に関して祈るということが多かったのです。

自然にできる祈りの時間が長くなった

しかし、最近その重点の比率が少し変わりました。これまで御言8割、祈り2割くだいだったのをようやく5割ずつくらいにできたのです。それは御言の時間を減らしたというよりも、自然にできる祈りの時間が長くなったということです。

これまで頭ではわかっていても、どうしても祈りが要求、課題ベースになっていました。しかし、祈りの中で少しずつイエス様ご自身だけに集中することができるようになってきたのです。これは、自分が救われた当初の祈りに非常に似ていました。

イエス様に集中する

イエス様に集中する時、イエス様が答えであることがわかります。すると、自然と祈りは課題要求ベースじゃなくなります。イエス様ご自身を求めることがすべての答えだと霊的な側面において思い出されてきたというような感じです。

まだまだ祈りに関しては訓練を受けている最中ですが、もっとイエス様と深く交わりたいです。

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