0833_イエス様に友と呼んで頂くには条件がある?!

イエス様が持っておられる多面性

イエス様は皆さんにとってどのようなお方でしょうか?救い主、神の子、贖い主、羊飼い、王、主人、友、花婿などがあると思います。こういった聖書に書いてある神様の側面はいずれも大切なものでありますが、いずれか一つが強調されすぎるのは問題があります。特にイエス様が友と言う表現に関しては以前から何度かこのブログでも書いてきました。

0306_イエス・キリストは友、親しき中にも礼儀あり

ザアカイの話にあるように、イエス様は確かに友無き者の友となってくださいました。そして、主人が僕に接する以上の親密さで日々私たちと交わってくださることも事実です。

友が強調されすぎると

しかし、イエス様は救い主、主人、王、神の子などの側面を見ることなく、友としてだけイエス様を見るならそれは信仰が少しずつずれていくと思っています。それは自分自身がそのように経験したからです。当時僕の中でイエス様は友という言葉によって親しい関係が強調されすぎていました。つまり、義なる神、近づきがたい光の中に住んでおられる神といった聖なる側面がおろそかになっていて、慣れあい、なぁなぁの関係になってしまっていたのです。

時には僕はイエス様を都合のいい友達のように接していたこともあります。本当にそれは危険な信仰状態でした。しかし、僕はただの罪赦されただけのこの世では無きに等しい、卑しい、汚い、ちり、無価値な者にすぎません。ただ、神様の憐れみによって価値ある者としてみて頂いているだけです。

友と呼んで頂くための条件

なぜ改めてこんなことを思ったかということこれまで何度も読んでいた聖書箇所に驚いたからです。ヨハネの福音書にはこのように書かれていました。

あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
ヨハネ15:14

この御言には友と呼んでもらうには明確な条件がついています。それは、御言を守るならという条件です。これは非常に厳しい条件のように思えます。しかし、ヨハネの手紙などでは神から生まれた者にとっては神の戒めは決して難しいものではないと書かれています。

神が友なき者の友となるところの「友」とここで書かれている「友」の意味は違うのかもしれませんが、これからこの御言と向き合って戦っていこうと思いました。

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