1126_なぜ集会に出ても心に何も感じないのか?

信仰以前に

最近、「心を開く」ということがあらゆる場面でいかに重要であるかを教えられています。本当に仲のいい友達には人は自然と心を開くものです。そして心を開く時に人は解放や喜びを感じるのだと思います。

これは神様との関係でも同じです。クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても神様に対して心を開かない限りは、たとえそこで御言が語られ、聖霊の働きがあったとしても何も入ってきません。信仰の以前に心を開くことがすべての前提になると思うのです。

語られる人に心を開く

自分の具体例を話したいと思います。僕は以前教会に来ていたゲストスピーカーに対してどうでもいいような偏見を持っていました。当時、僕はそのスピーカーの語る言葉に心を開いていなかったので、その集会でほとんど恵まれるようなことはなかたのです。むしろ、どうでもいい偏見に囚われてしまっていて、不平や不満が心に溢れることすらあったように思います。

そのような体験をしてから、「神が遣わされた者は神の言を語る」という御言を握って、どのような人にでも心を開くように心がけてきました。自分でそれができない時は、「どうか柔らかい心をもって、心を開いて御言を聞くことができるように」と祈りました。そうすると、心が解放される体験をしたのです。

クリスチャン同士であっても心を開かなければ

さらにセンシティブな例を出しましょう。例えば、ペンテコステ派の人が福音派の集会に出る。あるいは、その逆で福音派の人がペンテコステ派の集会に出る。そういった場合、クリスチャンであれ、先生と呼ばれる人であれ、心を開くのが非常に難しいのではないかと思います。

これは現状の超教派の働きが一部分に限られており、双方があたかも水と油の関係のようで、互いに干渉しないでおこうとしていることからもわかると思います。

双方で語られていることが福音で聖書的であっても、集会の形式も福音的、かつ聖書的であっても、「あっちはあんなだけを自分たちはこう」と頑なになってしまって心を開くことができなくなっているのだと思っています。

すべて神の御霊に導かれている者

という僕も今は福音派の教会にいますが、もともとペンテコステ派のバックグラウンドを持っていたので、そういう風に思ったことがないわけではありません。しかし、神様が教えてくださったことは悔い改めることで、「あなたは集会の時に私だけを見ているのか?」、「あなたは私に従ってきなさい。」といった言葉でした。

信仰の導き手であり、その完成者を見つめている人こそ、主に対して心を開いている人でそういった人は自分自身が主イエス様に満たされているから、細かいところの神学や教義や形式には気にもとめないのだとも思いました。

この御言がそのとおりだと言っていると思います。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
ローマ8:14

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