1105_「恵まれている魂」と「恵まれていない魂」

恵まれている魂とは

最近は「恵まれている魂」と「恵まれていない魂」について思わされています。恵まれている魂は御言と祈りによって魂が主の愛で溢れています。主の愛が溢れているということは、その生き方が現れてきます。

その生き方とは、つまりイエス様の生き方そのものです。人を愛する生き方と書くと抽象的ですが日常生活におとしこむと、こういうことだと思います。例えば職場や教会で自分に対してつらく当たってくる人や何かにつけて文句をゆってくる人の祝福を祈る人のことです。また、今日は定時で上がれるとおもっていたその5分前に急ぎの仕事がきて自分が残業しないといけない時に喜んで対応する人のことです。

恵まれていない魂とは

僕はこのような生き方をしている人を知っています。自分が傷つくことがあっても、自分が損することがあっても主が喜ばれる生き方だけをしている人が実際この地上にはいます。外から見ていて思うのは、その人の魂はいつも恵まれています。そのような生き方ができるのは、御言と祈りによって、その人が主のところにすべてをもっていっているからだと思います。

一方、「恵まれていない魂」とはたとえ御言と祈りによっていたとしても主の愛で恵まれていません。昨日も書きましたが、それはパリサイ人や律法学者のような生き方かもしれません。

魂が恵まれていないので、恵まれている人を憎むようになります。また、不平不満や愚痴や文句が絶えず出てきます。同じ御言を読んでおり、同じように祈っているように思えるのにこの差は何なのでしょうか。

イエス様のところに行っているか

それは、たった一つの違いだと思います。それは自分の罪や重荷をイエス様のところにもっていっているかどうか?です。もし、自分の罪深さを自覚するならば、それをイエス様のところにもっていきます。またどれだけ不平不満に思うようなことがあってもそれを誰にも言わずにイエス様のところにもっていくのです。

最近自分はとても律法学者やパリサイ人のようだと感じています。毎朝御言を読んでいるし、それなりに教えられることはある。また祈りもまぁそれなりにしている。しかし、出てくるのは恵まれた魂から出てくるようなものじゃないのです。

今日もゆるしをこう

心の中に沸き起こってきた人を批判したい気持ちや愚痴や不平不満を、人にいう前にまずに主のところにもっていくことです。それはこのような思いをもってしまってイエス様どうか赦してくださいという懇願をすることだと思いました。あー本当に自分は罪深いと思います。イエス様のところに行くほかありません。

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