感情に紐づく信仰
僕は昔から自分の信仰が感情に結びついていることに悩んだことがあります。たとえ恵まれる集会やキャンプや油注がれた器が導く集会で大きな恵みを受けて主のために立ち上がろうと決意したとしても、翌日からの日常生活の引力に負けてしまって、その恵みや決意が失われてしまうということが頻繁にありました。
それは自分の信仰が永遠に変わることのない御言に基づいているのではなく、自分の感情に紐づいていたからにほかなりません。悪く言えば、一次的な高揚感だけを楽しんでいたのです。しかし、もし、その恵みが心からの悔い改めがある前提で、変わることのない御言に紐づくならば、決して集会の恵みをたった1日で失うことはありません。
御言に紐づく信仰
御言中心の信仰生活に変えてから信仰生活が大きく変わりました。確かに感情は一喜一憂します。また時々刻々と変化します。時には神様が共におられることが「感じられない」ということがあるかもしれません。しかし、それは僕の主観であって、感覚であって、聖書は確かに変わることなく共にいてくださると約束があります。
それから、信仰が上がったり、下がったりするということがなくなったのです。そのために自分がこれまで試行錯誤してきたことは徹底的に御言を自分の内側に編み込む、打ち込みう、刻み込む作業です。
セーフティーネット
自分で覚えたい聖書箇所をノートに書き写して祈り心をもって告白するだけでなく、ボイスレコーダーに録音していつでもどこでも聞けるようにしました。また定期的に御言のメンテナンスをして過去に覚えた御言も忘れないようにする仕組みも作りました。それから「信仰が落ちる」ということは起きていないように思います。
きっと、この「信仰が落ちる」ということに関して、すべてのクリスチャンにはセーフティーネットがあると思います。それは日曜日に教会に行って主と交わるということです。たとえ、平日に主から離れる生活をしていても週に1回は主に立ち返る機会が設けられています。
1日の中に複数設ける
しかし、僕が感じたのはセーフティネットはそれだけじゃ圧倒的に足りないということです。そのため、1日の間に複数のセーフティーネットを設けています。だから、1日の間で仮に信仰が弱りそうになることがあったとしても、そこから立ち上がれるような仕組みを作っています。
毎日のデボーション、暗唱聖句をする時間、Youtubeで説教を聞く時間、部屋で祈る時間、お風呂で祈る時間、ブログを書く時間などがあります。忙しくて仮にどれかが抜けたとしても、どれかで対応できるようになっています。
昼も夜も主の御言を思う日々を送りたいです。