堅い食物
聖書には乳のような飲みやすい霊の食物もあります。のどが渇いた時にちょうどよくごくごく飲めるものです。しかし、その一方で堅いがゆえに、食べられない、あるいは、できれば食べたくない霊の食物もあります。例えばこの御言はいかがでしょうか。
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。マタイ16:24
まず僕の肉なる性質は、自分を捨てることに抵抗します。何よりも自分が大切なので、自分の時間や自分の楽しみを優先したがるので、この言葉を受け入れたがらないのです。
十字架のウーバーイーツ
次に、僕の肉は自分の十字架を背負うことに対しても激しく抵抗します。自分が日々神様の前に犯す罪を悔い改めたがらないのです。人は裁くのに俺は悪くないと言わんばかりに自分の間違いや自分の汚れを認めたがりません。仮に時に自分の罪を認めることがあったとしても、その都度だけ十字架のところに来るだけをして決して日々背負おうとしたがりません。
それはちょうど、ウーバーイーツのように悔い改めるために、十字架を玄関先で受け入れて、悔い改めたのちは十字架を玄関から追い出して、決して背負おうとしないことです。
キリストに従うとは
最後にイエス様に従うことにも抵抗します。なぜなら、イエス様の歩まれた道は徹底的な自己犠牲の道だからです。寝食を惜しんでしもべとして人に仕える生き方です。人のために何かをしても感謝されないこともあります。それでも人を愛し続け、人を赦し続け、人に関心を持ち続け、神に栄光を帰す生き方です。
僕の肉なる思いは、自己犠牲はしたくない。自分のために生きると言うのを知っています。
肉によって失望しない
しかし、僕が御霊の中を歩むならば、光の中を歩み続けるならば、光の中に留まり続けるならば、この堅い食物を食べることができるようになります。なぜなら、そこでは十字架によって僕の肉が死に霊が生きているからです。
たとえ、魂が救われていたとしても、肉の性質が色濃く残っていたら、堅い食物を味わうことはできません。むしろ、口にいれたいとも思いません。しかし、イエス様の十字架の血潮によって肉から解放されるならば、堅い食物を食べたいと思える、そして、それを咀嚼する力が霊によって与えられると信じます。
肉を無力化して、霊によって生きます。