0789_クリスチャンになって本当によかった

クリスチャンになっていなかったら

今朝、通勤途中でふと「クリスチャンになって本当によかった」と思いました。もしクリスチャンになっていなかったら、つまり、イエス・キリストと出会っていなかったら、僕の今ある人生は絶対にありませんでした。

洗礼を受けただけでなく、今も生きているイエス様に出会った体験がなければ、僕は本当に造り変えられることも、これからも造り変えられ続ける望みもなく、ただただ、罪の中でがんじがらめになっていたと思います。人格、資質、品性、性格すべてにおいて人並み以下の底辺中の底辺にいた人間ですから、ひどく暗い人生を送っていたに違いないのです。

イエス・キリストがすべて

ところが、イエス・キリストの慈愛と博愛が現れた時、僕の行った義のわざによってではなく、ただ神の憐れみによって再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて造り変えられたのです。この聖霊はイエス様を通して僕の上に豊かに注がれました。もし、この聖霊がなければ希望もありませんでした。この聖霊こそがイエス様がともにおられることを確信させるものだったからです。

そして、聖霊の感動は、心で感動する以上の喜びを与えてくれました。もはやこの世の楽しみで自分の心を楽しませる必要がなくなったのです。これまでは「様々な音楽を探しては聴いて感動する」を繰り返してきました。しかし、音楽も飽きるものなので、次から次へと新しい音楽が必要になります。しかし聖霊の感動はこういった音楽を聴いた時の感動をはるかに上回るものでした。

音楽ではなく賛美

そして、教会を通して神を賛美することも教えてもらいました。賛美は決して聴覚で認識できるだけの音楽じゃありません。神が賛美の中に臨在されるので、霊で賛美し、霊で感じるものです。

たとえ、重厚なオーケストラがなくても、素晴らしいコーラスのメロディーがなくても、そこに霊によって神を礼拝する者がいれば、神は確かにそこにご臨在されるのです。ギター一本でも、あるいは、Youtubeで賛美を聴いて心を神に向けるだけでも、そこに主はおられるのです。

主我らと共にいます

だからこそ、仕事をやめて誰をあてにすることもなく一人で中国行くことも全然怖くありませんでした。いつでも主が共にいてくださったからです。深夜の空港で乗り継ぎを一人で待つ時、中国の田舎でバスが見つからず一人で歩いていた時、中国のバイクタクシーに乗っていて激しくこけた時、一人でも全然孤独じゃありませんでした。

主は生きておられます。今週はペンテコステの日ですが、聖霊が求める者に豊かに注がれるように祈ります。

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