魂の状態
自分の魂の状態をいつも良い状態にしておくことがクリスチャンには求められています。もし魂の状態が恵まれていなければ、そこから決して命の泉が湧き上がることはないからです。もし、命の泉は湧き上がっておらず、干上がっているなら、クリスチャンは世の人よりもはるかに弱い存在になってしまいます。
魂の状態を良い状態にすることは、つまり、イエス様が心のおられることなのですが、そのためには日々心の中に沸き起こる肉的な思いを日々十字架につけ続ける作業が必要になります。なぜなら、イエス様は聖いお方なので、私達を愛していても、罪はにくいのです。
悔い改めていない魂
肉的な思いを十字架につけることとは、言い換えるとイエス・キリストの恵みによって罪を無力化することです。では、無力化すべきものは何でしょうか。例えば、苛立たしさ、怒り、高ぶり、不平不満、ゆるせない思いなどがあります。
僕自身は先週後半は魂の状態がよくありませんでした。すぐに神様の前に悔い改めればいいものの、自分の自我が残っていて、なかなか神様の前に出れなかったのです。僕自身はそういった状態からいち早く脱出できるようにシステムを動かしています。
- 日々のデボーション
- 風呂での祈り
- 毎週の日曜日の礼拝
これら3つが正常に稼働していれば、基本的には日々のデボーションで悔い改めるタイミングが与えられます。
システムが稼働しないと
しかし、僕はその日をデボーションなしで仕事をして、デボーションなしで寝てしまったのです。これでセーフティーネットの①から外れてしまいました。さらにその日、僕は風呂場に本を持ち込んでしまい、そこで2時間ほど本に夢中になってしまって風呂場での祈りも実行されなかったのです。これで②からも外れてしまいました。
そして、本日、日曜日の礼拝③で、ようやく神の前に悔い改めることができました。本当に毎週ある教会の礼拝で神の前に出れることに感謝しました。もし、この礼拝がなければ、僕はついぞ、悔い改めの機会を逃してしまっていたかもしれません。
最後の砦
心の中に悔い改める事がある時に、人は霊的なことに関して無関心になります。そして、僕みたいに世俗的な楽しみを求めるようになってしまうのです。そして、それは、僕のようにずるずるとひっぱられてしまうものなのです。
もし、自分ひとりで信仰生活が送れるというなら、その人は立派な人かもしれません。しかし、僕みたいな弱い人間の信仰は、日々の信仰生活と相互作用的に働く教会という神の家によって立てあげられるものだと痛感しました。