神の愛の属性
また昨日に続いてコリントⅠ13章について書きたいと思います。昨日までで下記個所を読みました。
愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、妬むことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
無作法をしない、自分の利益を求めない。
この続きは「いらだたない、恨みをいだかない」となっています。皆さんはいかがでしょうか。もし、本当に神の愛に満たされているクリスチャンだったら、いらだたないというのです。神の愛は決して苛立つことがないのです。
苛立たない
残念ながら僕はいらだってしまうことが多いです。先日はスーパーでおっさんに順番を抜かされてイラっとしてしまいました。また、コンビニの棚でゆっくり商品を選んでいる人に対して「早くどいてくれ!」と心の中でイラっとしてしまいました。
もしかしたら、こんな日常の些細なことで苛立ってしまうのは僕だけかもしれません。本人も本当は苛立ちたくないのです。何よりイライラするとそれに認知をもっていかれるので無駄な時間でしかありません。だから苛立つことなく、平穏な気持ちで過ごしたいと心から願っているにもかかわらず、そのようにできずにいるのです。そのたびに、イエス様が必要だと感じます。
恨みを抱かない
次は「恨みを抱かない」です。こちらは個人的には現状あまりぐっとくる言葉ではありません。おそらく、これからの人生で学んでいくのかなと思っています。今は誰にも恨みを抱いていない場合、それは守られているから恨みを抱いていないだけでも、もし一度、何かが起こった場合、こういった感情が自分にも沸き起こるだろうと思っています。誰でも誰に対しても恨みを抱いてしまう可能性はあります。
先ほど述べた苛立つ気持ちはすぐにやってくる一方で、割とすぐ去っていきます。当日中はいらいらすることがあったとしても数日もすると忘れるものです。しかし、恨みの気持ちは揮発しにくく、何年にもわたってその人を支配してしまいます。だから、恨みという気持ちは恐ろしいです。
恨みを抱かずに祝福する
善意をあだで返されたり、理不尽なことをされたり、ひどく心を傷つけられたりすることがあるかもしれません。そうした場合、その人に対して恨みを抱かないという選択をするのは人間にとって難しいことかもしれません。しかし、幸いなことは、そういったことをされたとしても、その気持ちを分かってくださり、さらに、その恨みの気持ちから解放してくださるお方がいるということです。
十字架の上で暴力と暴言の限りを尽くされたにも関わらず、誰も恨まなかったイエス・キリストだけが恨みの気持ちから解放することがおできになるのです。