緊張感がない日々
最近、具体的な目標を持たずに、ただただ流されながら生きているような気がしています。なんとなくぼんやりとおおよそこういった方向へ進みたいとか、進んでいるだろうなという感覚はあるのですが、言語化できていないので、生活に緊張感が欠けています。
以前は大目標とそれを支える中目標と小目標を書いて、ピラミッド構造にしていました。不思議なもので、言語化したものを見ながら毎日過ごすだけで体が目標に向かうものです。
流されている気がする
ただ、ここ半年前くらいから生活ががらっと変わってしまってから、言語化された目標を見る習慣自体がなくなってしまっていました。「やってはいるけれど目標を意識できていない」という状態です。本音を言えば、かなり壮大な目標や理想を掲げているので、そういった姿勢をもつことがしんどいと感じているのかもしれません。
しかし、自分の信仰生活や日々の生活を立て直すためにもう一度、しっかりと内省して、祈って、静かな時間をとって、目標を打ち立て直さないといけないと感じています。そうしないと、本当に流されてしまい、刹那的な生き方になってしまっています。そうなると、あっという間に1日が終わり1年が終わってしまうと思うのです。
目標を立てるとは
なんとなく目標を立てたくらいでは体は絶対に動きません。最低限、感情に紐づけた目標が必要になります。感情に紐づけるといってもとても単純なことです。例えば、かっこいいバンドを見てギターを始めたとか、ある偉人伝の本を読んで、この人のようになりたいという気持ちが沸き起こったなどです。
目標を立てること自体は簡単ですが、続けるとなると難しくなります。誰もが経験したことがあるように目標に紐づいた感情は必ず浮き沈みするもので、モチベーションは常に変動するからです。そこで役に立つのが言語化です。目標に向けて体が動き続けるように言葉によって自分を制御する方法です。
クリスチャンの目標設定とは
ただし、クリスチャンの目標設定には感情や言語や数字に紐づくものだけでは不十分です。なぜなら、クリスチャンの生き方は霊的であるべきで、霊的に紐づかない目標はその存在の本質からずれることになるからです。霊的な目標、聖書的にはビジョンと言いますが、祈りの中で与えられたビジョンを与えられてこそ、初めて世に流されないで生きることができると感じているからです。
というわけなので、これまであいまいにになっていたビジョンを、再度は祈って自分のビジョンは何なのか?を明確にするところから始めたいと思います。
「幻のない民は滅びる」(箴言29:18・欽定訳)