もくもく会とは
ネット上で様々なコミュニティーなどを検索してみると「もくもく会」と呼ばれるグループがあります。例えば朝の8時~9時の間で参加者がZOOMなどで集まります。そこでみんなが何か話すというわけではなく、各自黙々と作業をして最後にこの1時間で何をやったかなどの報告だけをするゆるーい会だそうです。
僕は以前この「もくもく会」からアイディアを得て、クリスチャンのもくもく会をしたいと思ったことがありました。特定の時間を強制的に天引きして、それぞれが聖書を読んだ入り祈ったり時間をもつことができるというものです。
もし何か教えられたことや共有したい感謝なこと、証などがあれば分かち合うというゆるーい集まりです。
もくもく会はしない
けど、結局僕はそれを実行に移すことはしませんでした。なぜなら、位置づけが非常に中途半端だからです。聖書にあるとおり、二人または、三人が私の名によって集まっているところに、私もその中にいるのであるという、集会形式にはほど遠く、やっていることが個別的すぎます。だからといって、個人的に主と交わりをするのに、誰かとZOOMと繋がるのはノイズでしかありません。
基本的に主との交わりは密室でさしで行われるものです。聖書にはこのようにあります。
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。マタイ 6:6
主との交わりの動機
主との個人的な交わりに専念するには、スケジュール的な強制力はいりません。自分が主と交わりたいから主との時間を天引きして、能動的に主体的に自主的に求めていくのです。それは主の愛に飢え乾いているいるからであり、主との交わりの楽しみや喜びを求めているからです。もし、誰かが集まるから、自分も主に向き合うというのは、間違っていないと思いますが、正しくないように思います。
もちろん、求道中の方や信仰の初期の場合だと、そういった補助的な動機は必要かもしれません。しかし、救われて数年も経過しているのに、教会がつまらないからとか、教会にあの人が来ないからとか、という他の理由で主に向き合わないのは少し違うのかなと思いました。
集会的イベントに振り切るなら
ということで、クリスチャンのもくもく会をするくらいなら、一人で主に向き合う方が絶対いいです。しかし、もくもく会を集会側に振り切ってコンテンツを変えるならそれはありかもしれません。でもおそらくそれは、すでにもくもく会と呼べるものじゃないでしょう。
主との時間は秘密の時間です。誰にもじゃまされません。