0460_感情に触れられて感動する。霊に触れられて霊動する。

神の御心

日々生活する中で、僕はどれほど神様の御心に沿って生きているのだろうと思います。御心合致アプリなどというものはないので、今日は60%自分勝手に生きて、40%は御心のままに生きました。ということがわかるわけではありません。

祈って明確な導き、あるいは意思決定を与えられることもありますが、祈ってあとはエイヤ!で一歩踏み出す。はたまた、最近祈れていないし、神様に喜ばれない生き方をしているんじゃないかと不安になったりすることもあります。

霊に働きかけられる

このような話を聞いたことがあります。人間は、感情に働きかけられて、感動しますが、理屈に動かされて理動したり、知識に働かされて知動することはないということです。一方、聖書でいうと、主の霊によって動かされる霊動ということがあるのではないかと思いました。

聖書には霊に触れられて、主に働きかけられて、聖霊の導きによって生きた人たちの話が多くあります。ある人は激しく主の霊が臨み、獣を打ち負かすほどの力を与えられたり、ある人は主の霊が共にあり、燃え盛る炎の中に放り込まれても、焼かれることもありませんでした。

主の霊に従う

結局、僕がどれほど神様の御心に沿って生きているかは、この主の聖霊の導きに従っているかどうかにかかっているのだと思いました。第一に、聖霊の導きを求める。第二に、聖霊の導きを知る。第三にその導きに従うということです。

聖書には神様の御心が明確に書かれています。さらに従った者の具体例が豊富に書かれています。しかしながら、個々人の状況や具体例にあった導きを得るにはやはり聖霊の導きが必要だと強く感じています。さらに、主からの語りかけに対して、「はい、従います」言える心も、僕にとっては聖霊がなければできないことです。

主の戦い

僕自身には肉的な性質が色濃く残っていることを自覚しています。「ぶっちゃけ、神様の御心なんて知らなくても生きていけなくね?」とか「そんな割にあわない御心に従ったら損するだけ!」とかいう内なる声がないわけではありません。

神様の御心に従いたい思いと、御心に従いたくない思いを相戦わせて、主の御心に沿って生きています。ダビデがゴリアテにこのように宣言したように!

またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。
サムエルⅠ17:47

おっさん
■感情に働きかけられて感動するように、霊に働きかけられて霊動するということもあるのではないか
■神様の御心を知って、それに従うためには、聖霊の満たしが必要

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