エゼキエルの願い
今朝聖書を読んでいるところで面白い箇所がありました。旧約聖書の預言者エゼキエルが神様に人糞で焼いたパンを食べるように命じられるのです。しかも、1回限りではなく、1日に1回。さらに大麦の菓子のように食べるように言われるのです。
あなたが食べる食物は量って一日に二十シケルである。あなたは一日に一度これを食べなければならない。また水を量って一ヒンの六分の一を一日に一度飲まなければならない。あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。
エゼキエル4:10-12
偉大な預言者であるエゼキエルは持ち前の従順力を発揮して、「畏まりました。すぐに用意して食べます。」と言ったわけではありませんでした。かえって、神様に譲歩をお願いしているのです。エゼキエルは神様の要求を拒否するわけではないですが、これまで汚れた物を口にしたことがないせめて、人糞ではなく、牛糞にしてくださいと懇願し、その願いが聞き届けられるのです。
アブラハムの願い
信仰の父であるアブラハムも同じように神様に譲歩を要求している箇所があります。神様がソドムを滅ぼすとおっしゃった時に、アブラハムは「もしソドムに50人の正しい人がいるのであれば、滅ぼすことをおやめになってください」と懇願します。その要求が聞き届けられると、さらに40人、30人、20人、10人と最終的には、もし10人の正しい人がいたら滅ぼさないと約束をしてもらいます。
結果的に、ソドムには10人の正しい人すらいなかったので、滅ぼされることになるのですが、このアブラハムが神様の間に入ってとりなす行動は仲保者としてのイエス様の姿を見ることができます。
仲保者なるお方
もちろん、この箇所だけを切り取って、「おっしゃ!俺も神様に譲歩してもらえるように交渉してもいいんだ!」と思ってしまうのは短絡的だと感じています。大前提として、彼らの願いは自分の要求を押し通すために譲歩を要求したのではなくて、自分の聖さを保つため、あるいは、人々にとりなすために神様に要求していました。しかも、エゼキエルしかり、アブラハムしかり、彼らは神様に大胆にお願いできるほど、神様と親密な関係にあったということです。
天の父と最も親密な関係にあり、人間の罪のためにとりなしてくださっている方はイエス様です。神様の御心に沿ったものであれば、聞き届けられるのです。パウロはこのように言っています。
しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
へブル7:24-25