0428_二心の者であるものは、そのすべての行動に安定がない

目指していること

このブログのテーマは「聖書の言で人生を巡航速度まで上げ続ける。イエス・キリストと歩む逓増する豊かな心の人生。」と一丁前に掲げているのですが、これには深いわけがあります。僕はイエス・キリストに従って生きていくと決心して以降、依然として安定感のないクリスチャン生活を送っていました。ある時は燃え、ある時は激冷め、熱しやすく冷めやすく、奉仕がある時だけ祈り、他はあまり祈らない。というような生活でした。

特に夏のキャンプや聖会などのイベント、あるいはダイナミックでスケールの大きい外国人スピーカーとかが来ると心は燃えるのですが、しばらくして、日常生活に戻ると、あら不思議、あの熱さがあっという間に消えて無くなってしまうという経験をしてきました。

諸悪の根源

なぜこういうことが起きるかというと、二つの者の間で迷っているからです。「イエス様と一緒にいたいから聖くありたと思う自分」と「いーや、世の中のことも楽しいし、何より僕らしく生きたいと思う自分」がいます。おそらく、恵まれた集会に出たりすると、前者の僕が勝つのですが、いざ、日常生活が始まると、後者の自分が大きく主張しだすのです。

日常生活の中では、常に意思決定を迫られます。祈るべきか、自分の楽しみを優先するか、奉仕するべきか、自分の時間を優先すべきか、あるいは、様々な出来事において、どのような反応をするかも自分で決めます。聖書が何度も言っているように、忍耐を貫き通すか、あるいは、無意味な自己主張をしたり、感情をあらわにするか、などです。

どうすればいいのか

僕の中の結論は、日常の引力に負けてしまうから、熱く燃えていた心が消失してしまうんだと思いました。それならば、日常の中でもっとイエス様を求めて、ひと時も離れないような生き方がしたいと思うようになりました。それは、誘惑がきても、「あーどうせ負けるな」ではなくて、瞬時に「主をお助けください」や「主によって勝つことができる!」と言えるほどにも自分の弱さを認める生き方です。

聖書にはこのような言葉があります。

ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
ヤコブ1:6-8

主を求めること

たとえ、どんなことがあっても、疑わないで、信仰をもって願い求めることが僕には必要です。二心の者であるものは、そのすべての行動に安定がないと書かれていますが、逆に、もし一心に主により頼むならば、すべての行動が安定するのです。それが、「聖書の言で人生を巡航速度まで上げ続ける。イエス・キリストと歩む逓増する豊かな心の人生。」につながると信じています。

おっさん
■安定したクリスチャン生活に必要なのは一心に主を求めること

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