おじさん同士の喧嘩
先日朝方に家の外からなにやら罵声が聞こえてきました。なんだろうと思っていると、警察官がバイクに乗って複数人集まってきているようでした。実はこのあたりは割と人と人との摩擦が起きやすい地域で、これまでもスーパーや路上などで何回もおじさん同士の喧嘩を見てきたことがあります。
正直、またかという気持ちで聞こえてくる喧嘩の声を聞いていたのですが、警察官が来てから20分ほど経過しても、罵声が収まる気配はありません。ほかの地域からも応援のパトカーが駆けつけていてあたりが騒然となっていました。いよいよ大変だと思い、ベランダに出て当たりを見回すと警察官5人くらいがおじさんをかこんでパトカーで連れて行くのを頑固と拒否しているようでした。朝から本当に見苦いと思って部屋の中に入りました。
自分の心の中
しかし、よくよく考えたら、僕自身も外に現れていないだけで、心の中ではおじさん同士の喧嘩以上に見苦しいことを考えたり思ったりしているのではないかと思いました。先週は特にいろいろな業務が溜まっていたので、不平不満モードが発動してしまい、非常に情けないのですが、「自分だけが業務が多い」とか、「自分だけが忙しい」とか、「あの人は楽そうだ」とか、「あの人は手を抜いているだ」とか、そういった他責の気持が湧いてくるところに、自分の醜さを感じました。
他責からは何も生まれず自責によってのみ、そこから自分が変わることに意味があるのに、油断すると他責になってしまっているのです。また、相手の弱みではなくて、強みだけを見るようにするのは頭ではわかっていても、日々の生活の中で、それを全く実践できていないのです。
日々自分の十字架を背負うこと
ただ幸いなことは、「あー俺はもう汚い人間だ!」と悲嘆にくれるわけではなくて、神様の前に悔い改めることができることです。「日々自分の十字架を負って私に従って来なさい」とおっしゃったのはイエス様でした。十字架は死刑台そのものであり、本来は自分がはりつけられる処刑道具です。しかし、僕が日々背負っている十字架はもはや僕がつけられるための処刑道具ではなくて、イエス様が既に代わりにその道具によって処刑されてくださったのです。
だから僕は日々背負っている十字架を見て、自分の罪深さを知ると当時にイエス様の大きな恵みに感謝します。こんな者のためにも十字架にかかってくださったからです。今度からおじさん同士の喧嘩を見たときは、「見苦しい」と裁くのではなく、僕も実は同じなんだと思い、祈る心を持とうと思いました。
■自分の汚さに悲嘆にくれる必要はなく悔い改めるならば、主は既にその罪を赦してくださっている