人間は社会的な生き物
人間は社会的な生き物である以上、仙人になって山に籠もって霞を食べるような生活をしない限りは、必ず、人の間で生きなければなりません。いくらイエス・キリストの救いを受け入れて、「キリストを得ることは、すなわち、すべてを得たり」との境地に入ったとしても、自分以外の人なしでは必ず生きていけません。例えば、肉体、精神、魂いずれも、人との支え合いやかかわりによって、育まれるのです。
しかし、僕は10代でイエス・キリストの救いを受け入れた時、非常に極端な考え方をもっていて、イエス・キリストさえいれば、その他はすべて重要でないと考えていました。イエス・キリストだけが僕を裏切らないが、人は裏切る可能性がある。だから、信じることもしないし、重要でもないと極端に考えていたのです。
間違った尖った生き方
その生き方が間違っているとわかったのは21歳の時でした。そういった間違った方向に尖った生き方をしていたので、友達の目には、僕は友達すら不要であるように映っていたようです。ある時、友人から「本当にイエス・キリストがすべてであり、他のものは不要であるとするなら、僕(友達)との関係はすべて無駄だということだね」というようなことを言われました。
その友人とはいつも本音で話をしたり、笑ったり、怒ってもらったりできる本当の友のような存在でした。しかし、その友人が僕のことを思って何かアドバイスをしてくれようとする時、僕は「祈って考えるから大丈夫。人間の助言は不要」というようなことをはっきりと言葉では言いませんが、拒絶していたようでした。
主が与えてくださった人、物、環境
その時の友人の悲しそうな顔が僕の心を打ちました。確かにイエス・キリストはすべてのすべてであるけど、友人は僕のことを思って助けてくれているし、家族のサポートがあるし、全く関わりのないと思える人が作っている料理を食べたりしていて、その中で生かされていることは紛れもない事実だと、ようやくその時に気がつくことができました。21歳にして、ようやくこういったことに気づくあたりが本当にアホだと思います。
僕が生きている環境、周りにいる人々はすべて主が与えてくださっているもので、主に感謝して、全力でその環境を受入、人々を受け入れかかわっていいくことが主の思いなんだと思いました。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
コリントⅠ4:7