0280_恵まれなかった集会

恵まれる集会

以前、この集会は恵まれたとか、恵まれなかったとかを平気で言うクリスチャンに会ったことがあります。あたかも集会の成功可否?が運営側にあるような言い方で、どうしたものかと思いました。礼拝を構成するのは説教者や奏楽者や賛美を導く人だけではなく、聴衆こそ重要だと思っています。

なぜなら、礼拝は、一個人の自分と神様との対話だからです。そこに、説教者たちも影響を与えることは間違いのないことだと思いますが、そういった影響は主たるものでははありません。出エジプト後にイスラエル民族が約束の地に入れなかったのは群衆のせいでした。決して当時の指導者のモーセが原因ではなかったのです。

教会生活

同じような理由で教会をころころ変える人もいるそうです。もちろん、教会も人の集まりであり、合う合わないはあるものなので、そういうことも仕方のないことかもしれません。しかし、「人を見て神を見ず」、「自責ではなく他責」の状態だと、いつまで経っても理想の教会に出会うことはないでしょう。光が強ければ陰も濃くなります。人の集まるところには、目を覆いたくなるような、心の底から怒りがこみ上げてくるようなことさえあるかもしれません。だからこそ、イエス・キリストが何度も「ゆるし合いなさい」という言葉をおっしゃったのだと思います。

神様との関係

たとえ、どのような教会であっても、もし「神様、私を憐れんでください。私の魂は渇いています。主よ、どうぞ、このしもべに心を留めてください。」という飢え乾きの心をもって、偽りのない心で集会に望むならば、神様は必ず応えてくださると思います。なぜなら、神様は偏り見る方ではないからです。神様はいつも真実なお方です。切に神を求める者に出会ってくださるのです。

神の方に絶対に誤りや間違いはありません。僕の場合、最近、神様との関係がよろしくないな〜と思う時は、たいてい、悔い改めていない罪があったり、誰かに対して苦々しい思いを抱いていたり、心に余裕がなかったりしています。ですので、そういう場合は、内省し、静まり、聖書を読み、この世の引力から引き戻し、神に立ち返らせ、悔い改めに導いてもらえるように祈ります。

だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
マタイ5:23-24