自分の中にあるバグ
皆さんは自分という人間にバグあると思ったことはないでしょうか?僕自身は幼稚園の時に自分の中にあるバグを自覚し、小学生の頃の心には既に厭世的な気持ちが生まれていました。どうして自分はこんな人間なんだろう?どうして自分だけがこんなのだろう?周りを見る限り自分が考えることは一般的ではなく、周りの考えが全く理解できないことが多かったです。
勉強一つにしても、言われたことをするのがすごく嫌で、「これをやって何の意味がある?」とひねくれた態度しかもっておらず、大して真面目に勉強もしなかった結果、字も著しく汚く、学力も非常に低い人間となってしまいました。それが自分の個性ではなくバグだと何となく理解できたのは小学生5年生くらいの頃です。教会でイエス・キリストの十字架の罪の赦しの教義をしっかり理解し始めたこと、また思春期に差し掛かり、自分で自分をコントロールできない負の自分が現れ始めたからです。
マイナーフィックスでは足りない
イエス・キリストの十字架の赦しの教義はわかる。しかし、それには僕を造り変える力はないとと思い込んでいたのは高校2年生までです。システムに致命的なバグを抱えるとそれに関わるすべてのユーザーが迷惑をこうむるように、僕は周りに迷惑をかける生き方をしていました。自分のバグには気づいているのに、それを修正する力がない、さらに良いシステムへと改変する力がない、そういった無力感から、一時的に有能感が得られるエレキギターにのめり込んでいったのだと思います。
そして、進路を考える時点で最大の壁にぶつかりました。「あれ、この世の中で生きていくには学力が必要なんだ」と。どれだけ仲の良かった友人もそれぞれの道を歩み始める。僕は自分の中にあるバグに悩まされている上、さらにこの先60年以上も学び続け、働き続ける生き方に絶望しか感じませんでした。
仕様書どおりにリプレイスされる恵
イエス・キリストにすがる思いで祈り始めたのはこの頃からです。自分の中にあるバグを修正してほしい。バグがあることによって慢性的な不具合が人生に生じ続けていました。自分の努力次第で、一時的な軽微なバグ修正はできたかもしれませんが、僕が望んでいたのは完璧なリプレイスであり、リニューアルでした。
それができるのは、僕の仕様書をご存知である神様のほかいません。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
コリントⅡ5:17
どれだけバグだらけのシステムでも、どれだけ一時しのぎをして、つぎはぎだらけのボロボロのシステムでも、もう誰も触りたくないようなスパゲッティーコードだらけのシステムであっても、イエス・キリストにあれば、リプレイスされ、リニューアルされ、人に役立つシステムへと変えられます。バグである罪はイエス・キリストによって葬られたのです。
リプレイスされても、引き続き、軽微なバグが出てくるかもしれません。しかし、そのたびにイエス・キリストに立ち返るならば、バグが修正され、引き続き、前を見て歩んでいくことができます。