誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。
先週末、復活祭の前日の土曜日、あるクリスチャンと一緒に話をしました。その人は、クリスチャンになって、まだ3年ほどしか経っていません。その人は、非常に素直な人で、自分の心の中を人に隠すことをしない人です。ですから、私もその人と話をする時は、自分の心を開示しやすく、話題も自然と、それぞれの信仰生活上における「弱さ」や「辛さ」や「悲しさ」といった「信仰の影の部分」に及びます。
「信仰の影の部分」という表現が、正しいかどうかはわかりませんが、このような話題は、他人の信仰を引き下げるという点から、少なくとも、公共の場所(教会)では避けるべきものとして、私は教えられましたし、また今でもそう理解しています。
その人は、話の最中に神様が自分をどう導こうとしているのかが、祈っても、よく分からないと言っていました。また、教会の集会や交わりの中にいる時はいいのですが、教会から離れて、一人でいる時は、どうもクリスチャンとしての力が欠如しているように感じてしまいます。
特に、故郷に帰って一人で伝道しようとする時、神が共にいてくださっているのかどうかさえ分からなくなり、自分がクリスチャンとして証もできず、自分の弱さを感じる。クリスチャンになれば、心から喜びが溢れ、平安があり、神の愛で人を愛し、平和を作り出す者とされると思ってた。でも、実際、自分自身を見ると決してそうではない。と言っていました。
私は、その人と同じ気持ちがよくわかります。
果たして、
信仰が足りないのか、
祈りが短いのか、
聖書の真理に対する理解が浅いのか、
聖霊の満たしが足りないのか、
立派なクリスチャンから、お叱りを受けるかもしれませんが、私はその人にこのように言いました。「この道を歩くこと、キリストのあとについて行くことは、本当に容易ではないし、ある時は、たとえ、聖書を読んでも、平安を得られない時もあるし、祈っても、神の存在を感じれない時もある。それでも、事実、イェスキリストは、決して見放さず、見切りをつけることなく、私たちに心をとめ、気にかけ、共にいてくださっているということ。」
私たちの会話は、この道を歩くことは容易ではないし、さらに言えば、この道を歩き続けることが馬鹿らしく感じることがある。しかし、それでも、諦めずに、失望せずに、キリストのあとについて行きたいと思う。という結論で終わった。
ある人は言います。未信者がもっと羨ましがるほどの物質的な祝福を、クリスチャンに与えたら、それを求めて救われる人が増えるのに。病を癒せるほどの霊的な賜物があれば、しるし、不思議をもって何千人という人を救いに導けるのに。
神の考えは人間の考えとは異なる。
神の方法も人間の方法とは異なる。
確かに、そういう繁栄の神学や、使徒行伝時代の信仰をもつ宗派もある。実際、そのようなことができるカリスマ的なリーダーや指導者も確かにいる。しかし、凡人は凡人で、自分なりにキリストのあとに従っていきながら、この人生を馬鹿みたいに思いながらも、不思議と初恋の相手を絶対的に信じるような気持ちが心にあり、また、使徒行伝の時代のような日が再び来ると信じている自分がいるから、本当に自分でもわけがわからない。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。
カナンの地は今日も輝いています。