異言は使徒行伝の時代で終わったという主張とそうでない主張 | 各自はそれぞれ心の中で…

それぞれに主張するところ

今朝読んでいた聖書箇所にこのようなことが書かれていました。

ローマ人への手紙 14:5
また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

当時、ローマにおいてはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。それぞれが、それぞれに主張するところが違い意見の相違が生まれていたようです。ユダヤ教からクリスチャンに改宗した人たちは当然、安息日などの日を大切したいと思うのは容易に想像できます。しかし異邦人からクリスチャンに改宗した人たちは「そういったことは救いの本質には関係ない」と言いたいのもわかります。

確信を持っておるべきである

そこでパウロは冒頭の聖書箇所のとおりこのように結論をつけました。それは「双方の言いたいことはわかる。しかし、各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。」というものでした。僕はこの「確信をもっておるべき」という言葉が心に留まりました。それは、現代のキリスト教会がまさに教派や教義の違いで、それぞれが、それぞれに意見を主張しているからです。

僕はこれでいいと思いました。「自分の中に確信があるならそれでよい」と。たとえば、プロテスタント教会でも意見が完全に分かれるセンシティブな異言の賜物について書いてみましょう。誰かが「あれはもう廃れたんだ。コリント人の手紙に書いてある。あれは使徒行伝の時代のことなんだ。あれは言語なんかじゃない。もはや異端だ!」と言ったとしても、「僕の中に起こったできごと」は誰にも否定できないのです。僕が確信しているならそれでいいのです。

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魂の救いの本質には関係ない

反対に「異言は使徒行伝の時代で終わった」という考えもその人にその確信があるならそれでいいのだと思います。しかし、もし確信がないのなら、毛嫌いしてやみくもに非難するのは間違っていると思います。なぜなら、聖書に書かれている賜物だからです。と言っても、あくまでも賜物です。魂の救いの本質には関係ありません。なぜなら聖書に書かれている最も大切なことはこれらだからです。

コリント人への第一の手紙 15:3-4
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

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