AIを使うこと
このブログでは聖書通読でAIを使うことに対して肯定的に捉えてきました。聖書を読んでいてわからないことがあったときにAIは比較的バランスが取れた情報を提示してくれます。
その一方で聖書は霊で読むものであることも強調してきました。むしろ、その読み方こそが重要です。なぜなら、神は霊であるからです。また、イエス様が話した言葉は霊であり命であるからです。
ヨハネによる福音書 6:63
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
つまり、霊こそが人を生かすのです。しかし、知識も重要です。なぜなら、人は霊的な存在であると同時に知性を持った存在だからです。信仰は感覚ではなく意志と言われている以上、意志を補強する知識は非常に重要です。だから神学は非常に重要だと思っています。
結論が既に決まっている
しかし、注意も必要です。それは純粋な聖書に対する知的好奇心や飢え渇き以外の動機で調べたいと思うことです。ある人たちは、特定の宗派や教義やセンシティブな解釈について調べたいと思うでしょう。しかし、この場合、多くの場合は、自分の中で結論が既に決まっていてその結論を補強するためにAIに確認することがあるのです。
それは何を招くでしょうか。時にそのように強化された考えは特定に宗派や教義に対する攻撃的な態度で現れます。これは決してクリスチャンと言われる人の行為ではないと思います。なぜなら、人を裁くことは主がされることだからです。ある人が言ったように「行ったらわかる」のです。今は早とちりして人を裁くべきではありません。
異端だから
ただ、こう書くと、こう言いたくなる人もいると思います。それは「あれは異端だから。聖書敵じゃないから。」というような意見です。しかし、よく考えればわかるこですが、本当に異端と言われる人たちを救済したいならば、そんな雑な批判はしないでしょう。本当に愛をもって救い出したいと思っているなら、その行動にでるはずです。もっとも、あからさまに攻撃してくる人の声には耳を傾けないと思います。
しかし、多くの批判者たちは異端を攻撃するようにしています。そして、それを読んだ人が自分たちの意見に参道するようにしようとするのです。
結論
僕の答えはこうです。純粋な聖書に対する知的好奇心や飢え渇きが動機であればAIを利用してもいいでしょう。ただし、聖書の本当の読み方は霊によって読む方法です。なぜなら、イエス様が話した言葉は霊であり命であるからです。












