何回でも行わないといけない
昨日は主と共に生きるという決心をした瞬間から霊的な戦いが始まると書きました。そして、その戦いの中で時にしんどさを感じたり、痛みを負ったり、さらには不信仰に陥りそうになることすらあります。
僕がしんどいと感じることがあります。それは自分に対してよく思わない人を愛したり、赦したり、祝福を祈ることを主の愛の中で実践できたとしても、それでそのレッスンが終了するのではなく、人生が続く限り、それを何回でも行わないといけないということです。
黙想すらしんどい
学校の単位のように「それをクリアしたらもうしなくていい」というようなものではなく、常にそのようなチャレンジが襲い掛かってくるのです。僕はそれがとてもしんどいと思うことがあります。実際、それで体調を崩すこともあります。
昨日は風呂場で電気を消して主の前に出ました。御言を宣言したり、告白したり、暗唱聖句したりする黙想は一切しませんでした。そういった知性を使う祈りすらしんどくなってしまったからです。また願い事やとりなしの祈りをする心の余裕もなくなっていました。
観想の祈り
だから、観想の祈りをしました。観想の祈りとはカトリックで行われている祈りの一つです。観想とは「私の中におられるキリスト」に焦点を当てる祈りです。言葉を発する必要もほとんどありません。ただただ自分の中にいるイエス様に集中するのです。
僕は一人真っ暗な浴槽の中で何も発することなく、主だけを求め続けました。その時に自分の正直な気持ちが出てきました。それは今日のブログでずっと書いていることですが、「主よ、しんどいです」という言葉です。僕は自分がそのような状態にあることを自覚したくなかったですし、またそういったことを主に告白することを避けてきていました。
一緒に担おう
驚くべきことに主は僕のしんどさの中にも来てくださいました。決して「もう人の重荷を負うのはしんどいんだよ。祈って何とかしてくれよ。」と僕が言いそうなことは言いませんでした。ただ、そのしんどさを一緒に担おうとおっしゃってくださいました。これこそがイエス様のこの御言です。
マタイによる福音書 11:28-29
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。













