1911_中途半端なやる気はないより悪 | 思い込みから解放され本当にやる気は主からくる

内なる人は日ごとに新しく

主にあって変えられたいという願いをもってこのブログを続けてきました。その変化は遅々としており、ほとんど変わっていないように見えるかもしれません。しかし、確実に主にあって変わっている確信はあります。それはこの御言を握っているからです。

コリント人への第二の手紙 4:16
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

試行錯誤する中で一つで突破口になった自己認識があります。それは、「自分が変えられたいと思い込んでいるだけで、心の奥底、内心では別に変りたいと思っていない」ということに気づいたことでした。

人間の心はネス湖のようだ

外向けに対しても主に対しても「私は変わりたいと思っています。私はこんな人間だから」というのは悪いことではありません。現状維持よりも主にあって主の似姿に変えられたいと願っている魂のほうが尊いでしょう。しかし、人間の心はネス湖のようだと言われているようにそれは「主や人にいいように思われたい」という心が隠れていることがあるのです。

エレミヤ書 17:9
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

僕はこの自己認識をした時、自分が恐ろしくなりました。なぜなら、主に対して真実な心ではなかったからです。人を見ないで主だけを見ると言いながら、人からの評価をしっかりほしがっていたからです。

やっている気

この自己認識から学んだことはこれです。中途半端なやる気ほど厄介なものはないということです。こう思うことがあるのです。「自分はやっている。少なくともやっている。少なくとも取り組もうとしている。」そういった気持ちが少しずつ自己義認へとずれていく可能性があるのではないかと思ったのです。

むしろ、中途半端なやる気でやった気になっていることを悔い改めるところから始まります。僕はそうでした。真剣に取り組んでいるわけでもなく、自分の方法で自分の許容範囲ないで中途半端に「やっている気」になっていたのです。この御言のとおりでしょう。真剣じゃないのです。

ヘブル人への手紙 12:4
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

ふつつかな僕

これはおそらく奉仕などに関しても同じことが言えるでしょう。中途半端なやる気や気持ちは下記御言の心を失わせてしまいます。僕は今日も悔い改めます。

ルカによる福音書 17:10
同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

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