時代が人を形づくる
「時代が人を形づくる」というのは、まさにその通りだと思います。たとえば、明治や昭和初期の時代は日本において大転換の時でした。そのような時には時代を切り開く稀有な人材が多く登場し歴史を作ってきました。簡単に言えば「やらないと国がなくなる」や「真剣に取り組まないと自分の命がなくなる」というような時代だったのだと思います。
はたから見たら、過激でぶっとんでいるような人たちであったかもしれません。しかし、言い換えれば、自分の気持ちに素直に愚直に正義や真実を追い求めた人たちだったのではないかと思っています。
死ぬことは当然
そして、そういった時代を生きた人と自分を比較することで見えてくるものが多くあります。それは「自分に素直に生きた?」や「命を捨てるほどに真剣に生きたか?」などです。確かに明日には自分の命が亡くなるかもしれないという時代と今とでは生き方が変わるのは当然のように思います。
先日、三島由紀夫のドキュメンタリーを見ましたが、彼なども自分の気持ちに正直に真剣に正義や美を追い求めて生きた人だと思います。彼は太平洋戦争の時代、入隊を希望しますが、病で入隊できずにいます。彼はその時に遺書を書いたそうです。彼は晩年、切腹自殺をして生涯を追えますが、彼にとっては死ぬことは当然であったかのようにも思いました。
使徒行伝の時代
ひるがえってクリスチャンはどうでしょうか。聖書の使徒行伝の時代も、まさしく「やらないと国がなくなる」や「真剣に取り組まないと自分の命がなくなる」というような時代だったでしょう。人が簡単に理不尽に死ぬそのような時代でした。
確かに聖霊が弟子たちの上に注がれたことで福音は広がっていきましたが、そのような時代だったからこそ、だとも思います。ペテロやヨハネやその他弟子たちにとっては三島由紀夫以上に死ぬことは当然であったのだと思います。
ゾンビ状態
なぜなら、既にキリストの十字架によって死んで葬られよみがえった存在だったからです。僕はこれまでなんとなく、キリストの死と葬りを理解していました。しかし、本当に死んだ人は死んだように生きます。そして、キリストとともによみがえった人はよみがえったように生きます。
ある牧師先生がこのようなことを言っていました。「クリスチャンはキリストとともに死なないといけないが、中途半端に死んでゾンビ状態になっている人もいる。肉に完全に死ななければ、霊において完全によみがえることはできない。」
ローマ人への手紙 6:6
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。












